※LaLa2010年3月号ネタバレ

　政務室に向かう曲がり角で、予期しなかった人物が現れて、方淵は驚いた。
　方淵の天敵とも云える相手である。
　どう黎翔に取り入ったのか、方淵の臨時の補佐官になってしばらくして、ついには政務室までに現れるようになった。
　――女は世界を乱す。
　そういうことを知っているだけに、方淵の尊敬する狼陛下がそうなってしまったのかと失望すると同時に、彼女を前にする時、黎翔はずいぶんとやわらかい表情をするようになった。それもまた気に入らない。
　妃の風格にはだいぶ足りないし、自分の件も含めてなにより喧嘩っ早い。気に入らないのはあくまで「狼陛下の花嫁」なのだが、こういう女性は冷静になれば、方淵の周囲にはいなかった。
　方淵をおとしめようとした奴らを偶然夕鈴が見かけた。彼らに加担すると思いきや「自分と勝負中だから、横槍入れるな!」と一喝した。
　見方は少し変わったが、それでも狼陛下の妃に変わりない。しかも素性は知れないと来ている。
　夕鈴を見た方淵は苦い表情を浮かべた。同時に夕鈴も嫌そうな表情を浮かべる。
　見つめ合いというよりも、軽いにらみ合いと云った方がふさわしい視線を交えて、先に口を開いたのは夕鈴だった。
「こんにちは、方淵殿」
　それに、方淵はハッと我に返って、礼儀として笑みを浮かべる。そして云った。
「これから政務室ですか?」
　行き先は同じであることはもうわかっている。方淵はわざとらしく聞いてしまった。
　ぴくり、と夕鈴が引きつるのがわかった。しかしすぐに不敵な笑みに変える。その変化がなんとなく面白かった。
　すたすた歩き去って、置き去りにすることも出来た。しかし形ばかりの和解をしてから方淵も気持ちの変化が若干はあり、さりげなく夕鈴に歩調を合わせる。
「ええ。方淵殿も遅刻ですか?」
　今度は自分が夕鈴の言葉に、眉を上げる番だった。
　勇りんは睨みつけて、云い放つ。
「貴女と一緒にしないでいただきたい。私は必要な書簡を取りに行っていただけです」
　それに、夕鈴も応酬する。
「私だって、勉強をしていたので遅れました」
　――感心なことだ。
　きっと聞けば、「陛下のため」と答えるのだろう。
　言葉ではいくらでも云える。
　しかし、取り繕う相手がいないところで、声を張り上げる彼女を見てしまったので、おそらくその質疑は方淵にとって意味がない。
　その代わりに云った。
「ほう。貴女がもう、勉強などしても無駄ですよ」
　夕鈴の表情がはっきりと歪んだ。
　なにかを堪えるようにして顔をうつむけ、それから夕鈴は方淵をまっすぐに見た。そして云う。
「そ、それはそうかもしれませんけど、でもなにもしないよりはいいです!　今は何の役に立たなくても、明日には陛下に役に立つかもしれない、です」
　――面白い、娘だ。
　方淵は歩みを止めて、夕鈴の方に向き直った。そして彼女を見る。
どうして容姿が10人並の彼女が陛下の心をつかんだのか、初めはわからなかった。しかし、彼女のこういう気持ちに陛下が惹かれたのなら、それは納得出来るかもしれない。
その心を、知りたくなった。
「貴女は、陛下になにを望みますか」
　云ってみて、妃に聞くにはあまりにも無礼な質問なのに、気付く。
　――けれども、彼女は無礼者、とは云わないはずだ…………。
　そして後で陛下に云うこともない。
　逆にもう口に出してしまったのだから、このことが陛下に知られて処罰が下されようと構わない。
　知りたい、という純粋な気持ちが方淵の中にあった。
　方淵の言葉を聞いた夕鈴は戸惑うように方淵を見つめ、少し考えるような表情を見せた。それから方淵を見つめる。
　その一連の動作を方淵はしっかり見つめていた。
「私のそばで、あの方が少しでも心安らぐ時が過ごせるように―――それが私の望みです」
　夕鈴の言葉は、方淵の心にことん、と落ちた。
　ふ、と顔を伏せ、夕鈴に見えないように口の端を上げて、方淵は歩き出した。夕鈴がそれに気付いて、方淵についてくる。
　――それでいい。
　彼女は本当の言葉で方淵を満足させた。けれどもやはり問うてしまう。
「宝飾品や、あらゆる贅よりも、ですか」
　云って、半歩後を歩く夕鈴を待つように足を止めて、彼女を見ると、方淵に並んで、彼を見返し、力強く頷いた。
「ええ。――だって、私はそのために、あの方のそばにいるのですもの」
　あまりに満ち足りたその表情に、方淵は驚く。
「そうですか………」
　――何の贅もいらぬ、というのか…………愛されているな、陛下は。
　あの諍いの時に、そういう女性だと陛下も云ったし、自分もそう感じた。改めて言葉にしてもらったところで、方淵のなにかが変わるわけではなかった。だけどどうしてこんなにも胸がざわつくのだろうか。
　方淵の様子に、夕鈴が戸惑っている気がして、方淵は我に返った。と、同時に政務室の扉が見えた。
「着きましたよ」
「あ、」
　夕鈴は政務室を前にして、怖気づいているようだった。
　そういえば、いつもは中に入ってくる姿、あるいは中で顔を合わせる姿ばかりを見ていて、こういう場面の彼女の姿は見たことがない。
「方淵殿、先にどうぞ」
　譲られるとは思わなかったので、方淵は驚き、そして首を振った。
「いいえ。貴女が先に入ってください。ここに貴女をわずかの時でも一人にするより、先に入ってもらった方がいい。この中には陛下もいますし、ここよりは安全ですから」
　ほんの一瞬さえ、命取りだ。自分よりも夕鈴の方が何倍も危険をはらんでいる。
　――しかし、彼女はそういう危険すら、考えたことがないのか!
　憤りさえ感じる。狼陛下としては別として、身分の高い男性の妻とは思えない危機管理の弱さだった。よく考えれば、役人にケンカを吹っ掛けるのも普通とは思えない。
「でも…………」
　さらにためらう様子に、方淵は頭を抱えたくなった。
　――どこまで・……………!
　心の中で、魂が抜けそうなためいきをついて、方淵は云い募った。
「『狼陛下』の敵は独りではないです。その者が何人も刺客を雇えばそれだけ危険が増します。……このくらいの譲り合いで、私は狼陛下に怒られる、場合によっては処罰されるのは御免です」
　正直、この回廊に潜む刺客より狼陛下の方が怖かった。
　そこまで云って、夕鈴は納得したように頷いた。
「わかりました。それでは先に入ります」
　扉の中に姿が消えるのを確認して、方淵はがっくりと肩を落とす。
　――つ、疲れたぞ……………!
　一呼吸置いて、それから方淵は中に入った。
　もうすでに、黎翔が夕鈴の姿を認めて、勝手に一休憩を決め込んで彼女に近づいているところだった。
「いいんだ、勉強、お疲れさま」
　方淵が入るまでに、なにか会話があったのだろう。黎翔が夕鈴をねぎらった。
　やわらかい声、それに見えていないがきっと夕鈴にしか見せない表情をしているのだろう。
　――こんな夫婦もいるのか。
　王と妃でありながらも、まるで夢物語のように互いを想いやっている。
　自分はそんな風になれないだろう。
　そこは置いておいても、と方淵は考える。
　――私が望むのも。
黎翔のそばにいたい―――それだけだった。
そういった意味では、認めたくないが、方淵の気持ちも、形は違うけれど夕鈴の想いに近いものかもしれなかった。




End 100128up　方淵バージョン。なんというか書ききれなかった…………!　楽しかったけれども。