※LaLa2010年3月号ネタバレ


 夕鈴は立ち止まった。
 ――あれは………柳 方淵?
 気付いて、すぐに身を隠す。
 行き会って、ケンカをするのはいい。云い合いも皮肉の応酬も、望むところだ。しかし今は良くない。
 夕鈴は隠れた柱の陰から、こそり、と限りなく姿が見えないように、方淵の様子をうかがう。
 今の夕鈴は掃除婦の格好をしている。
 妃の仕事もある意味では全うしていないが、つい手持無沙汰になったので、なにかないかと尋ねたら、掃除の仕事を斡旋してくれた。本当の雇い主である黎翔は少しだけ嫌な顔をしていたが、自分でもこの副業は向いていると手応えを感じてしまったのが、わかってしまったらしい。ひと悶着あった後は、特に止めるようなことはなかった。
 しかし仮にも妃の身で、掃除婦をしているのはばれないように、とは夕鈴の正体を知る誰もが口をそろえて云う。それは自覚していることなので、注意深くしている、今もそうだ。方淵と行き会って、万が一にもやり合ってしまったら一発で、夕鈴だとわかってしまう。うまくやると云いたいところだが、夕鈴と知らずともおそらく高圧的な態度を取ると思われる方淵に、耐えられるとは思えない。
 ――とはいっても、私じゃ絶対手の届かない人、なんだけど―――。
 夕鈴の家柄で判断するならば、方淵と話はおろか、顔を見るのもかなり難しいことだ。ああやって云い合っているのはつかの間の幻だと夕鈴自身がわかっていた。
 ――陛下なんてもっと先だけど、方淵どのだって、遠いのよ……………。
 しかし戻ってしまえば、方淵に後ろ髪引かれることはない。少し名残惜しいと思うが、それだけだ。
 様々な感情で、方淵を見ていた夕鈴だが、方淵が珍しくその場から動かないのに、あれ、と違和感を覚える。普段の方淵は時間を惜しんでばかりで、熱心に仕事に励んでいる。活発的に動かないが、立ち姿は常に時間の無駄遣いと考えているだろう意思が見られた。積極的に動くほどではないが、机にかじりつくようにして書類仕事をしている以外はどこかせわしない印象だ。
 どこか遠くを見ている方淵のまなざしに、夕鈴は隠れて見ていることも忘れて、魅入られる。
 割とどんな時でもすっと伸びた背筋は、あの言葉を聞いた後では方淵の性格を現わしている気がする。
 ――意外に、苦労もしているのだろうな…………。
 和解の態度は、不本意ながらも納得してもらったみたいな不思議なものだった。その時にまた新しい方淵の片鱗を見た気がする。
 家柄はすごいが、本人は実力主義の相当な負けず嫌いだ。気にはしているだろうが、執務の時はそんなことは関係ないとばかりに率先して仕事をこなしている。
 夕鈴がたまにこうやって見かける時でも、前をまっすぐに見つめていて速足で歩く姿しか印象にない。
 ――そんな方淵さんが、今見ているものはなんだろう?
 すごく心が惹かれた。
 その勢いのままに、方淵の方をのぞきこもうとし、隠れた柱の冷たさで、夕鈴は自分が今どんな格好をし、隠れている状況を把握する。
 ――だ、駄目だ!
 夕鈴にしてはひどくまっとうで冷静な判断だった。
 そして振り切るように、その場を後にした。
 そうしないと、方淵が気付いてしまう可能性が高いからだ。夕鈴がまた無意識に、方淵の視線を追ったりすれば、今度こそ見つかってしまうだろう。この姿を見られて、正体がばれるわけにはいかない。方淵なら見つかっても、他の妃を排除しようとする輩よりはましだろうが、それでもどう転ぶかわからない。
 ――さ、掃除掃除!
 心の中でハッパをかけながら、けれども夕鈴は来た方向を振り返った。
 ――あの人はなにを見ていたのだろうか?
 そしてまだあの姿勢で、あの場所でたたずんでいるのだろうか。
 やはり気になった。
 聞けるくらいにきやすい関係になれるとは思えない。けれども、なにか機会があったら聞いてみたいと思った。
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 友人にいただいたブックカバーのモチーフが柳でした。そこに添えられた言葉が素敵で、方淵さんの名字が柳、なのを今更ながらに思い出し、浮かんだ話ですが、書きたかったことまで書けませんでした。ただ話としてはこれで完成なんでいいです。
 前からこそりと云っている書きたかった話は、前書いた話に多少組み込んでしまったので、あきらめてそろそろ4月号の狼陛下を読もうと思います。