【呼称の是非】

 ある日の内家の食卓。
 兄弟4人がそろって食事をする中に、内の名字ではない自分が混ざっていることに、少し慣れた頃。
「あ、内くん、おかわりいる?」
 元クライスメイトだった竹弘の茶碗が空なことに気付いたいちえが箸を置き、腰を上げると、竹弘が遠慮がちに「お願い出来る?」と茶碗を渡した。
 ――遠慮しなくてもいいのに。
 思うが、その気持ちだけは受け取っておく。それが、竹弘らしさだと思う。
 もう要らない時、竹弘は箸をきちんと揃えておくのだ。そうしなかったので、自分がまだ食事中なのを気遣ってくれたのだろう、と感じた。けれども食事しながらも、竹弘含む兄弟の給仕をするのも楽しいのだ。
 ついでに他の兄弟の空の茶碗も受け取って、ご飯をよそい、戻って食事を続ける。
 いちえの他に4人もいる。内家の4兄弟である。同学年の竹弘が無口なのが不思議なくらい、他の3人は話題が豊富で、よく話をする。会話はいまいち噛み合っていないが、こういうにぎやかな食卓も、いちえにはとてもまぶしく、楽しい。
「そういえば、いちえちゃんさぁ」
 なにかを思い出したように次男の菊長が云う。
「はい?」
 いちえは菊長の呼び掛けに、菊長を見た。
「どうして、竹弘だけ、名前で呼ばないの?」
 いちえは少し考えて、答える。
「えっと、……多分習慣だと思います」
 クラスメイトだった頃も、その後、竹弘に野宿していたところを拾われるまで、二人はそんなに仲が良かったわけではない。普通のクラスメイトとしての名字に敬称をつけて呼び合っていた。それは今も変わらない。
「竹弘もなんで呼ばない?」
 いちえの答えを聞いてから、菊丸は竹弘に話題を振った。
 竹弘も自分に振られると思っていなかったのか、わずかに目を見開いてから、いちえと同じように少し考えてから答える。
「習慣だよ」
 それぞれの答えを聞いて、菊長は「ふうん」と鼻を鳴らした。他の2人も箸が止まる。そして長男の梅久が云う。
「でもさぁ、2人だけ、名字の呼び合いなんて、せっかくこうやって団欒してるんだから、名前で呼べばいいのに」
「けど、僕たちはいちえちゃんって呼んでるけど、竹弘兄いだけが名字で呼んでいるのも、なんかあやしいよね」
 重ねて蘭丸が云うのに、竹弘は肩を落として、ため息をついた。
「なんてこと云うんだ、おまえ…」
「そうだ! 家族らしくするために、いちえちゃんと竹弘もこれから名前で呼び合うことにしようか」
 長男にして、この家において、唯一の稼ぎ頭の発言に、いちえは戸惑い、竹弘の表情は変わらなかった。けれどもなにか感じているだろうことはなんとなく予想出来た。
「あ、それいいね! いいこと云うじゃん」
「賛成! うん、梅久兄いにしては名案」
「長男の権力は、そんなものか…」
 二男と末っ子の言葉に、梅久ががくり、と肩を落とす。しかしすぐに立ち直り、まだ若干固まっているいちえと竹弘に云った。
「そういうわけで、頑張って」
 無邪気に微笑む笑顔の長男に、二人はそれぞれに頷いた。

 テスト前でもないが、後片付けを手伝う、と云った竹弘をいちえは今回ばかりは断らなかった。
 無口な三男がなにかアクションを起こす時は、善意もあるが、意味もあるのだとわかっている。そして自分でも用はあった。
 しかしすぐに話題には持ち出せず、2人は黙々と作業を分担する。
 皿がすべて洗い終わったところで、いちえがぽつりと云った。
「困りましたね」
 横で拭いていた竹弘が顔を上げて、いちえを見る。
「毎度のことながら残念な兄弟でごめんね。――でも、今回ばかりはあっちの云うことが合っている気がするよ」
 その言葉は少し意外で、いちえは驚く。
 ――内くんは、嫌がっていると思ってた……。
 自分はどうかと問われれば、戸惑いの方が大きくて、嫌かどうかもよくわからない。しかし竹弘の言葉はいちえに少なからず衝撃だった。
「でも、無理して呼び方を変えなくても……」
 追いすがるようないちえの言葉にも、竹弘は心の中でなにかを決めたように、きっぱりと首を振る。
「云われるまで、慣れ過ぎてて気付かなかったんだ、俺は。――だから俺も澤さんを名前で呼んでもいい?」
 改めて云われると気恥ずかしい。
 そういえば、他の3人は自然に自分を名前呼びしていた。そこに、やはり内家の女性への自然な扱いを見たような気がした。竹弘は元クラスメイトということもあり、その当時の呼び方だった。
 菊長の言葉で、竹弘の内家のDNAをよみがえらせたのだろう。もう云っても聞いてもらえない気がした。それにそこまで嫌がるのも変な話だ。
「はい……」
 いちえが頷くと、竹弘がかすかに笑みを浮かべた。予想もしなかったので、いちえは目を見開いて、その笑みを鑑賞してしまう。
「いちえさんも、出来れば俺を名前で呼んで」
 しかし云われた言葉に、冷水を浴びたように我に返った。
「えっ、『さん』?」
 不思議そうに首を傾げ、竹弘が口を開いた。
「駄目だった? じゃあ、いちえ―――って、」
 呼ばれた瞬間、いちえは真っ赤になってしまった。
 ――うわうわ! やっと内くんの天然たらしになれたのに、駄目だ!
 だってずるいではないか。やっとあまり動かない表情の代わりに、感じられる声音の変化を見つけて、今自分を呼んだ時(もその前の敬称をつけて呼んだ時も)、その声音がとても甘くなっていたのだから。
 顔を隠すように、流しをごしごしこすって、心を落ち着かせる。沸騰点ではないものの、まだ余韻を残した熱のことは忘れる。だがまだ頬は熱い。
「…………どっちかなの、かな?」
 いちえが問うと竹弘が首肯した。
「うん、ごめん。そこは譲らない」
 竹弘はこうと決めたら譲らない。それは深くなった短い付き合いの中で知ったことだ。
 ――どっちにしても慣れるまで時間がかかりそう……。
 とはいえ、他の兄弟のように『ちゃん』呼びされても、やはり落ち着かない。
「せっかくだから、他と違う呼び方がいいんだ」
 重ねられた言葉に、またもいちえは沸騰してしまう。
「ひっ―――!」
 ――やっぱり天然たらし!
 その、いちえが特別、といった言葉に深い意味を求めてはきっといけない。流しの汚れを拭いて、またもいちえは心頭滅却する。普段のそういう場面よりずっとうまくいかないのだが、またも沸点から落ち着いたところで、口を開いた。
「じゃあ、お任せします」
「なら、さんづけで呼ばせて」
「了解です。私は……たけ、ひろ…………くん、でいい?」
 悩みながら名前を呼ぶ。竹弘の顔は見られない。
「呼び捨てでも構わないよ」
 さらりと返されて、いちえは心の中で悲鳴を上げる。
 ――内くん! いや、竹弘くん! それはあまりにもハードルが高すぎます!
「い、いえ! うちく…いや、竹弘、くんが私に敬称つけてくれるのに、そういうわけには―――」
「じゃあ、呼び捨てにし合おうか」
「すみません! 呼び捨て、無理です!」
 云い訳を即座に返され、いちえは腹を括って素直に謝った。
 く、と笑い声がして、ようやくいちえは竹弘を見る。
竹弘が笑っていた。
 ――イケメンは笑ってても、かっこいいなぁ……。
 確かに良く表情が変わる他の兄弟たちも、どんな表情でも格好がいいと思う。竹弘も例外ではなかった。
「わかった。じゃあ、今は呼び捨てはなしで」
「はい……あ、手伝ってくれてありがとう」
 ひとしきり笑い終えた竹弘が云うのに、いちえが頷いて云う。
「うん、じゃあ俺、部屋に戻るから」
「私は明日の下ごしらえやっちゃう」
 話は終わったので、そこは踏み込まない、といった感じに竹弘が頷いて、キッチンを出る。
 ようやく独りになったのを確認して、いちえはその場にしゃがみこんだ。
 ――はー、すぐ慣れないと、大変だぁ……。
 内家の兄弟は皆いちえに優しい。けれども女性の扱いに慣れている他の3人よりも、竹弘が一番いちえの心臓に悪い行動や言動が多い。これはやはり遺伝子なのだろうか。

 一方、キッチンを出た竹弘は、廊下にもたれて、大きく息をついた。
 ――呼び捨てにしたかったけど、澤さん…じゃないいちえさんは俺の尊敬する人でもあるから、それを今は尊重したい。
 だけど、一緒に暮らすことが決まったあたりに、「ずっとこの家をいちえが居られる方法」を実践する時がくれば、その呼び方は変わるかもしれない。
 でもどちらかしか考えられなかったのは、いちえにとって、他の兄弟と同じ呼び方をして、同じだと思われたくない、という竹弘なりの意地だということに、竹弘自身も気付いていなかった。
 end 101123wrote 101209up

「ウチで、お茶でも」なお話。もう好きで好きで、書きたくてたまらなかった割には、現在別ジャンル原稿もあって、時間がかかりました。遅筆にもほどがあります。