最近、お気に入りの校舎裏が騒がしい。
 ここ数日のことで、足を向けてみたものの、今日もゆったりまどろむ様子もなく、お気に入りの場所がなくなったことを少し淋しく思いながら、志水はぼんやりと屋上に足を向けた。
 屋上の扉を開ける直前、志水は弾かれたように顔を上げた。内心あわてながら、それでも極力音を立てないように、扉を開ける。
 開かれた瞬間、志水は全身を音に包まれた。
 そこに立ち尽くしたまま、志水は音に身をゆだねるように、目を閉じる。
 数日前、講堂いっぱいの観衆を前に立派に演奏した曲だ。けれど、その時とまた違うまた新たな音色で志水を惹きこむ。
 ――すごいなあ………。
 たまに、屋上から日野の音が聞こえてくることがある。今日は千客万来だったあの校舎裏で、いつもはその音が聞こえてくるとまどろみから覚め、そうしながらもあたたかい気持ちで胸がいっぱいになって、寝ているのとも違う不思議な感覚に包まれる。今日は意識はあのまどろみを求めてぼーっとしているが、立っているけれど、感覚はいつもあの音を聴いた時と変わらない。けれど、今日は特に音が澄んでいる気がしたのは気のせいか?
 そう考えている間に、演奏が終了した。
 屋上にいた人たちから送られた拍手に、日野はうやうやしく礼をする。
 そして顔を上げて、拍手を送る志水を見つけて、照れた表情を見せて、志水のそばまで歩み寄った。
「いつ来たの? ちょっと、びっくりした………」
 驚くというより困ったように顔を伏せる日野に、志水はペコリと頭を下げる。理由はよくわからないが、困らせてしまったのはおそらく志水で、そう考えると申し訳ない気持ちになる。
「………ごめんなさい」
 素直な志水の反応に、日野はあわてて、否定するように胸の前で手を振った。
「えっ、あ、いいの! 志水くん、いるとは思わなくって、その………――聴いてくれてありがとう」
 いいえ、こちらこそ、という意味で、志水は首を振る。
 2人はすぐそばにある屋上のベンチに並んで腰を下ろした。
「………放課後すぐのこの時間は練習室かあそこにいるでしょ? ――あーそっか、だからか」
 志水に語りかけた日野は、なにか思い当たることがあるのか、急にくちびるに手を当てて、納得したように頷いた。そして立ち上がって、屋上から下を覗き込んで、「やっぱり………」とつぶやいて、ふむふむと頷いた。
「せんぱい。なにか、知ってるんですか?」
 志水も日野のところまで近付くと、日野がそうしたように下を覗き込んだ。その方向は、志水はいつもいる校舎裏がある方向で、寝ている場所はここからは死角になる。そこはさきほど志水が訪れた時のにぎわしさがまだあった。 
 その原因を、日野は知っているのだろうか?
 日野はまた下の方に目を向けて、言葉を紡ぐ。
「うーんと、音楽科の人はどうだろ。あ、でもいるなあ………ってことは、広まりきっちゃってるんだね」
 言葉を選びながら、屋上から身を乗り出して、下を見て、また納得したような口調で云った。屋上の風が日野の髪をさらって、それを無造作にかきあげる仕種に志水は目を奪われた。
 ちくん、と胸が痛んだ。
「………そういえばあそこって、四つ葉のクローバーってあるの?」
 くるっと志水を見て、日野は問う。
 日野の問いの意図はわからずに、記憶を懸命にたどるが、あの志水がいつも布団代わりにしている草がどんなものであるか、まったく覚えていない。覚えているとすれば、きれいな草色をしていることくらいだ。
「え、四つ葉の、クローバー、ですか? ………覚えてないです」
 役に立てないことが、くやしい。
 わかっている、というふうなやわらかい笑みを日野は浮かべる。
「そうよねえ。変なこと聞いて、ごめんなさい。――あのね、ここ数日くらいかな、学校の庭で四つ葉のクローバーを見つけてそれをおまもりにすると、恋がうまくいくんだって」
 そういう噂の類いは、おそらく教室で話されていても、まったく気付かなかったに違いない。いつも教室での記憶はうすぼんやりとしていたし、見下ろして見えるのは女子生徒ばかりだったから。
 あの場所へ彼女たちが来なければ、知らないままだったかもしれない。来たとしても、日野みたいに教えてくれる人がいなければ、どうしてだかわからないままだったと思う。志水にはどうでもいいことだったが、わかったことがうれしかった。
「………はあ、そうなんですか………」
 志水の言葉に、ふふ、と日野はいたずらっぽく笑う。
「本当かどうか、わからないけど。ウチはすごい騒ぎになっちゃって、初めは普通科の方の庭だったんだけど、ついに志水くんの指定席まで行っちゃったってわけ」
「せんぱいは、探したんですか?」
 云ってしまってから、志水は自分で驚いてしまった。
 日野も志水はそういう質問したことに驚いたのだろう、少し目を見開いて、すぐに志水に軽く挑むように片目を閉じた。
「ナイショ」
 そして、まだ明るい中、時は騒がしく、四つ葉を探している女子たちを日野は見つめた。その日野を見つめる志水には、日野の心はわからない。知ったとしてもどうするのかわからなかったけれど、知りたかった。
 沈黙のまま、時が過ぎる。
 下の騒ぎとも、屋上のささいなにぎわいとも違う、ここはふたりだけの空間。もともと無口な志水はあまり気にならない。いや、それは前までのことで、他の人には変わらなかったけれど、日野の前で、ほんの少しだけ違う心持ちの自分に最近気付いていた。だけれど、長年の自分が変えられるほど、思うように言葉は口を出ずに少しだけ「なにか云わなくては」とあせる気持ちを抱えた。
 少しずつ減り始めた女子たちから視線をそらすと、日野は苦笑した。
「………まあ、あそこにクローバー自体なければ、もうしばらくは無理だけど、おさまると思うわ」
「そうですか………」
「恋する乙女も大変なのよ。少し我慢してやって」
 日野の言葉に、目をぱちくりさせた志水はその内容に笑い出してしまった。
 ふと、思い出した言葉があった。
「じゃあ、せんぱいも、大変ですね」
 笑いながら云った志水に、一瞬虚を突かれたようになった日野だったが、すぐに合点がいったのだろう。肩をすくめて、屋上の柵にもたれかかった。
「もうそうなのよ。まだ、どれをやるかも決めてないのよ」
 そう云うと大きくため息をついた。そんな日野を見つめ、それから志水は日野のそばにあるヴァイオリンに目をやった。
 ――今、彼女を魅了して止まないのは………。
 恋とは一筋縄ではいかない、そう結論づけて、志水は自分のチェロに苦笑を投げかけた。

 あの日から次の日には目的のものがなかったのか、じょじょに人は減り始め、3日が経過した今日には、いつもの場所は前と同じ平穏を取り戻した。
 思わず足を向けそうになるのだが、初日はあそこにおもむいただけで、女子の注目を一身に集めてしまったために、トラウマのようなものが出来てしまって、けれど、気がつくと目的地に近いところまで歩いてハッと我に返り、別の場所を探す、という行動を繰り返していた。
 入学してから、ぼんやりと歩いて眠さに倒れ込んでから馴染んでしまったお気に入りの場所は、そんな理由だけれども愛着はあるらしく、ふとあの場所を覗き込んでしまう。そして人を見て、まだ駄目なのか、とため息をついていた。
 今日は放課後すぐに練習室で、そこからここ2日くらいでのくせで、あの庭を覗き込み、人がいないことに喜びながらも時間いっぱいは練習に打ち込んで、練習室を転げるように、それでも傍目にはのんびりした様子で、志水はあの場所へ向かった。
 そこは最後に寝に来た時とは違う、とそういうことに無頓着な志水でも気付いた。見た目ではわからないけど、なんとなく空気が違うのだ。
 それでも、この場所に来れたのはうれしいと、志水は大体の定位置に腰を下ろす。そして持っていた本をぱらりぱらりと開いているうちに、やわらかい午後の陽射しにまどろみがやってきた―――――。

 少し肌寒いと思って、志水はうっそりとまぶたを開ける。
 ――また、寝ちゃった…かな……?
 寝るつもりはなかったのだが、やはり眠ってしまったらしい。どのくらい時間が経ったのだろう、思いながらぼんやりと空を見つめると、陽は結構傾いていた。久々の感触に、いつもより長い時間の経過を感じる。
「もうちょっと――………」
 日野が聞いたら引っ張ってでも起こされるだろうことを、ぽそりとつぶやいて志水は目を開けたまま寝返りをうった。
 ――クローバー………。
 見つけたとして、おまもりにしたとして、叶うのだろうか?
 ふと思う。
 その時、ちょうど、ヴァイオリンの音が聞こえてきた。
 ――せんぱいだ………あ、れ?
 うっとりとまた目を閉じようとした志水の目に入ったものに、志水はまたたきも忘れて、次の瞬間がばっと起き上がると、音色の方へ走り出した。
 音は、今日は正門の方から聞こえてきた。
 暮れようとする空の静けさに合わせて、寄り添うように静かできれいな音色を志水は追いかける。そうしながら、やはり魅了されて、自分の用事を失念して、ただ聴きたいがために走っているような気にもなっている。
 正門前で演奏している日野を見つけた時、ちょうど日野が演奏を終えたところだった。
 放課後残っていた生徒たちの拍手を照れたように受けていた日野は、志水を見つけて、笑みを浮かべた。
「あ、志水くん」
 志水は日野に歩み寄って、日野の腕をつかんだ。
「せんぱいっ、――来てくれますか?」
 有無を云わさない口調に、日野は驚いて、けれど頷く。
「は、――はい」
 云った後「荷物………」と日野はつぶやいたところで、志水は我に返る。
「――あっ、………すみません………」
 つかんでいた日野の腕を解放する。自分の手の中に余裕でおさまってしまった、驚くほど、細い腕だった。
「いいのよ、ちょっと待ってて」
 云って、日野はてきぱきと支度を終え、今度は志水の腕をつかんだ。
「待たせてごめんね。急ぐんでしょ? 早く行きましょう」
 つかまれて鼓動が高まった。さきほどの感触がよみがえってくる。
「――は、はい」
 腕をつかまれたまま、志水が一歩先に日野を誘導する。
 どこへ、とも聞かずに日野は黙ってついてくる。往復したため以上に心臓が速く脈打っているのは気のせいだろうか。思いながら、志水はあの場所へ辿り着いた。
 早足を止めた志水に、日野は云った。するりと志水の腕を解放する。
「………ようやく、いなくなったわよね」
 言葉に、ゆっくりと歩き始めた志水の後をやはり一歩後から日野が歩く。さっきまでいた場所まで来て、志水は足を止めた。そこにはさきほど放り出してしまった文献が、そのまま置かれていた。
「せんぱい」
 置いたままの本に気付いた日野は、志水の声に、云いかけた言葉を飲み込み、思わず志水の方を見た。
「――これ………」
 云いながら、文献のところにかがみこんだ志水に、日野も合わせてしゃがみ込む。文献の脇を指差す志水の指に視線をうつした日野は息を飲んだ。そして確かめるように、そこへ顔を寄せた。
「えっ、―――うそっ。………あったんだ………」
 志水の指の先には、四つ葉のクローバーがあった。クローバーが小さく群れる中に四つ葉はひとつだけで、どうやら他は三つ葉らしい。
「僕もさっき見つけたんです。ここ、植木の影だから、誰も気付かなかったんでしょうね………」
 志水の言葉に、日野はなにか思い当たったように、顔を上げた。
「志水くん、もしかして、私にこれを見せようとして、走ってきてくれたの?」
 問いに当然のことをどうして聞くのか、と云うような不思議そうな表情で志水は頷いた。
「………もう誰も来てないけど、せんぱい、ひょっとしたら、探していたかもしれないから………」
「――ありがとう。でもね、実はあんまり探していなかったの」
 困ったような表情は暗くなっていく陽の中で、志水の視界をにじませて、はっきりと見えない。
「え………?」
 よけいなことをしてしまったのではないか、と志水の中に暗いものが覆いはじめる。
 志水の表情を読んだのか、日野は違うという風に手を振って、言葉を継いだ。
「違うのよ。普通科で広まった時に、ちょっとだけ探しに行ったんだけど、ふと思ったの。やっぱり、神頼みは良くないかなって。本当に願うなら、こういうのに頼らずに、実力で頑張ってからだなあって。私はスタートからみんなより遅れてるんだから、こんなことしてる場合じゃないって……………でも、見られると思わなかった。ありがとう、志水くん」
 日野の言葉は静かに志水の胸に落ちる。クローバーを見つめて、満足そうな表情をしているのを見て、志水もあたたかい気持ちになる。よけいなことをしたわけでないのもわかって、ホッと安堵する。
「――じゃあ、これ、どうしましょう?」
「そのままにしておきましょう。――それとも志水くん、おまもりにする?」
 問う時、真摯な瞳で見つめられ、志水の息は止まる。少しの間、言葉を探す。答えはあったけれど、うまく云えなかったから。
「いいえ」
「そう、じゃ、ふたりだけの秘密にしましょう」  
 云うと「はい、ゆびきり」と左の小指を差し出された。うながされるままに、志水はその小指に自分のそれをからめた。
 それがくすぐったいような気がして、志水は微笑む。
 指が離れた瞬間、下校を知らせるアナウンスが流れた。
「よかったら、一緒に帰りましょう?」
 日野の言葉に笑顔で頷いて、志水は文献を拾った。

 end






 
040412up 
つか占ってないし!



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