まどろむことも出来ずに朝を迎えた。
なにが志水を打ちのめしているのかわからなかった。
ただこんなふうに音楽に関係ないことで、一回もまどろむことがなく、眠れないのは初めてだった。
だから多分、昨日の日野とのことが大きいのだろう、とどこか他人事のように思う。
あんなふうに誰かを拒絶したことは初めてだった。思い出すと、胸がきりきりと痛んだ。過敏に反応してしまったのは、日野だから、だ。それはわかる。
――くるしい。
そう一言で云える気持ちは、感じている間はとてもじゃないけど、一言で済ませられるようなものではなかった。
夜をどう過ごしたのか覚えていない。
ぼうっとベッドに腰掛けたまま寝ていることが多い志水は、昨晩もその姿勢だったが、ベッドに身を預けることなく座ったまま、朝日を見た。その姿勢でうつらうつらとしているけれど、寝ていないのは確かだった。
ここまで悩んでも原因の大きなひとつのチェロを弾くことをやめることは考えない。初めてあらがえないほどの壁にぶつかった、今は日野を傷つけたことがあっても、それを越えて、また弾く自分しか考えられなかった。
やめられないと自嘲するというより、それがもう志水の一部なのだ。
――香穂せんぱい、怒っているかな。
考えると気持ちが少し滅入る。
音が変わったと云われてから、ずっと聴きたくなかった音。
いや、聴くまでは普通に楽しみにしていたのだ。聴いて、どうしても自分の今の音のことを考えてしまい、思い知らされたのだ。
憧れを追い続ける気持ちは変わらない、ただ、今の自分には本当にかけらも出せないから、胸がきゅっとしめつけられる。音に触れる喜びもあったけれど、それが痛くて痛くて、そういうのは初めてで、志水はどうしていいのかわからなかった。だからちょっとさみしいけれど、避けていたのだ。
だからといって、あそこまで拒絶することはなかった。
拒絶、だと自分でもわかる。急に近づいた日野に心がまったく追いつかなかった。こんなふうに自分を見失うことは今までない。
「………ごめんなさい」
そっと呟いてみた。声は夜明けに静かな空間を震わせて、空気に溶ける。
もう一度謝ろう、と思った。あんなふうに手を払いのけるつもりはなかった。
今度は目を見てきちんと謝りたい。けれど少しだけ自信がない。
こんなことは初めてで、初めてだらけのことがこんなに立て続けで志水は戸惑うばかりで、そんな自分を少し笑った。
空は志水の重い気持ちを振り払いそうなほど青い。
振り払うまではいかないが、きれい、と思う余裕が出来たみたいである。
なんとなく息をついた。日野とのことがあって、音は奏でないとわからないけれど、心の状態は普段に戻った。
――もしかしたら、今日は眠れるかもしれない。
その時、少しだけ心が軽くなったのを感じる。
そしてその日、授業の記憶がまったくないほど寝入ってしまったのだった。
――なんとか、帰りまでに会えるかな………。
日野に謝ろうと決意した志水だが、今日は練習室を使用したりでなかなかすれ違わない。
心持ちが変わったことで、奏でる音が変わった気がした。それが良いかどうか、このところ変わってしまった音ばかり聴いている自分にはまだ良くわからない。けれど充実感があった。その手応えだけで、今日は良い。
ばらばらのピースだった編曲もスムーズに進み、そして気がついたら日野を探していない自分に気付いてあわてた。それでもきっちり練習室の使用時間いっぱいは練習に打ち込んだ。
ふと思い返してから、日野に会いたい気持ちは募る。なんとか今日、会いたい。
あの音色を聴くのは、少しだけ怖い。
昨日のように自分が自分でいられなくなる可能性もまだ志水は捨てていない。取り戻した気持ちはまだ完全ではない。音は聴けないかもしれないけれど、日野には会いたかった。
そして早く謝って………でも。
――ゆるしてくれるかな。
許してくれなくても、日野の心がわずかでも溶けるまで、謝り続けそうだ。
本当にこんなことはもうしたくない。日野だからこそ、心の痛みが深い気がした。
そこまで考え演奏も一段落し、ふと時計を見ると、練習時間が終わっている。支度をして、部屋を出て、足を屋上へ向けた。
――せんぱいが、いるかもしれない………。
なんとなくそう思ったのだが、屋上にはほとんど人がいなかった。
会いたい気持ちはなぜか消極的に向いて、屋上を離れてまで日野を探そうとはせずにベンチに腰掛ける。階段のほうを見て、昨日のことを思い出し、ちくり、と胸が痛んだ。
それなのにどうして足がここに向かったのかわからなかった。日野がいるかもしれない、と思っただけではない気がした。こうして日野を思い出して心臓がきりきりと悲鳴をあげるのに、それでもここに向かったのは………。
志水は考えるのをやめた。自分の中で答えを出すかわりに、久々に奏でた、と自分で及第点を出せた、チェロを出す。
ごめんなさい、と何回も云える。許してほしいし、嫌われたくないし、また話をしてほしいし、笑顔を見せてほしい。
――でもそれで、僕の気持ちは伝えきれるのだろうか………?
話すのは上手では決してない、だからこそ、自分の気持ちを伝える術を見失いかけていた。けれど迷っていてもしかたない、うまく云えなくても、云わなくてはならない。
そっと息を吐き出して、それからチェロを奏で始めた。
曲は今日編曲を終えた次のセレクション用のもの。編曲がうまくいって、弾くのに夢中になった時には日野のことを忘れかけていたが、編曲の間はずっと日野のことが頭のすみにあったような気がした。
――こうやって…音で伝えられれば良いのに………。
それでも100パーセント伝えきれるかわからない。けれど日野になら言葉よりもきちんと伝えられる気がする。
奏でる音色は、青い空が橙に染まりかける空に溶けていく。目をつむり、日野の残像を追いながら、演奏に集中していく。
言葉はいつもうまく伝わらない気がする。
だけど、音でも伝え切れないのかもしれない。
これじゃ、ダメかな、と思って1曲、弾き終えた目を開けた志水は、目の前の人影がいたことと、その人物に驚いた。
「香穂、せんぱい……」
呆然とうめくように云った志水に、日野は困ったような微笑みを見せる。
まだ夕方になるには早い時間なので、志水にそっとやわらかい影を落とす。
「素敵だった」
言葉はまっすぐに、志水の心に刺さる。ゆっくりと志水は首を振った。
想いは込めた。
それでも足りないと心が叫ぶ。もっともっと音色が言葉になっていくように。
「また、音が変わったのね」
うっとりと目を閉じて、呟くように日野が云う。
「……また?」
志水の問い返しに、日野は頷く。
「………ちょっと前、少しだけ音が違う気がしたの。私の耳が悪くなっちゃったのかな、と思ったんだけどね。素人聴きだけど、なんとなく。で、ちょっと間があいて、また変わったかなって。もしかしたら私の気のせいかもしれない。そんなに、たびたび変わるなんて」
日野は困ったように頬に手を当てて、云う。
その日野を志水は見つめる。口の端が自然と上がっていることに志水自身、気付いていない。
「変わった、かもしれません」
「え?」
「僕にも………実感としてよくわからなかったけれど、そんな感じでした。ちょっと前、おかしくて………どうおかしいか、僕にはよくわからなくて、今もなんとなくでしかないんですけど………今はそれよりは少しまともになった感じで」
自分でもなにが云いたいのかよくわからなくなってきた。
音の変化は、志水の聴覚を多少刺激したが、完全に、ではなかったのだ。記憶をたどると、そんなに日野を傷つけてしまうほどだったのかとも考えてしまう。ただそれは過ぎてしまったから思えることなのかもしれない。
――過ぎた?
なにかがつかめそうな気がした。
けれどそれはするり、と志水の手をあっさりすり抜けてしまった。
「そうか………じゃ、私の耳も少しは肥えたのかしら? もっとも、志水くんの音ってところは、少し変わったところで、どこにいてもわかったし」
日野の言葉に志水はきょとんとする。
「………え?」
「あーこれもテストかしら? 音が変わったと私が認識したあたり、4日前4時頃正門前、3日前3時半頃森の広場、2日前はエントランス、昨日は練習室? 音が聴けなかったわ、会えたけど。………どうかな?」
日野の矢継ぎ早の言葉に、自分の記憶を重ね合わせるのは難しかった。けれどおぼろげな記憶から、正確な時刻は空の色の感じで判断していって割り出してみると、日野の言葉がほぼ正解だった。
「………合ってます」
自分の音が日野に認識されていることが驚きだった。
日野は得意そうに笑った。
「ふふ、良かった………変わったけど、志水くんは志水くんで、あの音色を出せるチェロってないの。私はそんなにヴァイオリン暦がなくて、けど、セレクション中、音が変わったって云われるの、しょっちゅうなの。男の子は声が変わるわよね。そういうものなのかなって、私は思うの。セレクションで他楽器と競い合って、いろいろなことを桂くんの心が学ぼうとしてて、だから変わったのかなって。ほら、声も変わりかけって、ちょっと変になるじゃない? 桂くんの音は変なわけじゃないけど、そういう感じがするの」
言葉は、志水が昨夜まで苦悩していたことを見抜いているような節があった。昨日の自分はともかく、今の自分はやわらかく受け止められる。日野のいうような変化、それもありかもしれない。
「声変わり、もうしてますけど」
風に流されるさらさらの長い髪を片手で押さえて、日野は微笑む。
「それはわかるわ」
2人は黙って、しばらく夕暮れに変わる空を見つめていた。
「あ、そういえば」
なにか思い出したように口に手を当てて、日野が呟く。それを志水が拾うように、日野を見つめた。
「どうしたんですか?」
日野は一瞬躊躇した、彼女にしては少し珍しい。けれど志水を見つめて、照れるように笑って口を開いた。
「今日の音は私のことを呼んでいた気がする―――私の耳って都合いい?」
その言葉に、志水は首を振った。
「呼んでました。ずっと――聴かれてなくても、香穂先輩を僕はずっと探していました」
「〜〜〜っ!」
日野が口元を手で押さえる。頬が赤い気がするのは志水の気のせいだろうか?
――それよりも、今しかない。
日野の動作はなにか琴線に触れたけれど、それ以上に今云わなければならないことしか志水は考えられなかった。日野の顔色も気にしなくてはならないけど、云えなかったら志水は日野に会ってはならない気がしたので、心の中で謝る。そして志水は軽く息を吐いて、日野を見つめる。
そしてまだなにかに動揺しているような日野に向かって、ずっと考えて考えて、云う勇気がなかった言葉を一言、思いを込めて云ったのだった。
「ごめんなさい」
もう2度としないとは云えない。
本当ならそこまで云いたかったけれど、チェロに向き合って、日野に関わりたいと思う以上、また壁に当たる気がした。だけど出来ればこういうふうに日野を傷つけることはしたくない。
――音楽だけは、譲れないんです。
もうひとつ云いたかったけれど、それは云えなかった。
それは日野はわかってくれているような気がしたのもある。なんとなく感じただけだったが。
嘘はつけないし、つきたくないから、志水はそれしか云えなかった。
言葉は短かったけれど、気持ちだけは日野に伝わればいい。
end
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