至誠館の朝は早い。
 それは知っているが、夏の、しかも夜が明けきらないうちから、走りこんでいるその帰りに出会ったりすると驚く。
 その日は練習に納得いかなかったのもあって、夜も眠れなかったのだが、早くに目が覚めて、今日に限ってはもう一度眠れる気もしなくて、明け始めた空を見つつ、庭を散策していた。
 外に置かれている椅子に座り、明ける空の音色を思う。
 ――ヴァイオリン、弾きたいな………。
 寮内もだが、庭でならなおさら弾けないのに、未練がましく持ってきたヴァイオリンをそっと撫でる。
 うまくいかなかったところを練習したかった。
 指の動きもおぼつかないし、なにより表現が出来ていない。自分でわかるのだから、他の人が聞けば一発だろう。
 こんなに短期間で、戦いが続くとは思わなかった。
 このままでは終わりたくない、とこの学院に転入してきたまではよかったし、なんとか大会アンサンブルメンバーに選ばれたのは幸運だといえるが、めまぐるしすぎる。
 今まで、こんな短期間でいろんな曲を人前で披露することはなかった。
 ――さすがに、疲れたかな………。
 ふう、と大きく息をついた、その時。
 門のところが、急にざわざわしだした。何事かと思って、立ち上がりかける。
「もう、火積先輩! すぐ、殴らないでくださいよ〜!」
 これは新の声だ。こんな時間だが、元気である。かなでは少しほっとする。
「おまえはこうでもしねぇと、その口を閉じないだろうが!」
 すごんでいる声は火積だ。それに同調して、狩野の声が続く。
「そりゃ火積が正しいな」
「え〜、狩野先輩まで、ひどい!」
「こらこらやめなさい。まだ朝なんだから」
 声の音量は抑えめに、けれどもきっぱり云うのは八木沢だ。
「はーい」
 部員の返事の声が小さくなったのは、ひとえに諫めた八木沢の影響力だろう。
 いつもながらのやりとりが、かなでの心を安堵させる。
 けれども、皆の前に行こうかどうしようか悩んでしまう。
「あれ、小日向さん、おはようございます。ずいぶん、早いんですね」
 しかし距離があったのに、八木沢に気付かれてしまった。かなでは思わず立ち上がると、八木沢はもう目の前まで来ていた。
「あ、おはようございます。皆さんはジョギングですか?」
「ええ、騒がしくしてすみません。また、起こしちゃいましたか?」
 申し訳なさそうな表情で、八木沢が云うのに、かなでは首を横に振る。
 彼らがこちらの上京して来た時に、朝の練習に置いていかれた新のトロンボーンの音で起こされたのを覚えているらしい。
「いいえ、違います。早く目が覚めちゃって………」
「そうですね」
 やわらかい笑みは、今同じ寮にいることもあって、かなでの生活も把握していることを知っているものだ。
そう思うとかなり恥ずかしい。
「いいんですよ。ただ僕は逆に、小日向さんを含む寮生の方たちに迷惑をかけていないか、心配なんです」
 八木沢の言葉に特に他意があったわけではないと気付いて、かなではますます縮こまってしまう。
「そんなことはないです。いてくださって、うれしいです!」
 思わず力強くなって、ますますどうしたらいいのかわからなくなる。
 ――ほ、本当のことなのに………。
 言葉にすると、なんだかうまく伝わらないような気になる。それがもどかしい。
「そう云ってくださるとうれしいです」
 かなでの言葉に戸惑うように一瞬目を丸くしたのがわかったが、すぐに八木沢はにっこり笑んで云った。
その言葉と笑みに、安堵する。
「……あの、小日向さん?」
 静かな沈黙の後、八木沢が問うた。
「は、はい」
「あの、違ったら申し訳ないんですけど、――今、ヴァイオリン、弾きたいですか?」
 ――どうしてわかったのか!?
 驚いて、口に手を当てて八木沢を見つめるかなでに、困ったような表情で八木沢は指をさす。
「あそこに、ヴァイオリンがあるでしょう? だから弾きたいのかなって、思ったんです」
 示したのはかなでが座っていた場所で、そこには持ってきたヴァイオリンケースがある。
「――昨日からずっと、うまくいかないところがあって………」
 かなでは観念したようにうつむいて云った。
 八木沢は何も云わない。しかしすぐに問われた。
「楽譜も入ってますか?」
「はい、ケースの中に入っています」
 不思議に思いながら答えると、八木沢はさらに言葉を継ぐ。
「そうですか………歩くのは大丈夫ですか?」
「え、はい」
 そこでかなでは顔をあげると、八木沢はにこっとかなでに笑いかけた。
「じゃあ、行きましょう」
「へ?」
 戸惑うかなでに、八木沢は彼女に向かって手を差し伸べて云った。
「朝でも演奏出来る場所、知ってますよ」
「ホントですかっ!」
 かなでは勢い込んで云う。
「ええ、多分大丈夫でしょう。そこに案内します」
 うれしい。
 かなでの心は弾んだ。
 しかしこちらの寮で生活を共にするようになってから、なにかと助けてもらっているのにこれ以上助けてもらうのも気が引ける。
「でも、悪いです……道だけでも教えてもらえれば……」
 それでも弾きたくて、かなでは云う。八木沢は静かに笑うと、首を横に振る。
「いいですよ。僕もまた練習していますから」
 云って、ずっと持っていたトランペットケースを掲げる。
「でもこの後また練習じゃ………?」
「体力つけるのも練習ですけど、演奏も練習でしょう?」
 押し付けがましくない云い方に、もうかなでがなにか云うのも変な感じになってきた。ついてきてもらうのが嫌なわけではない。むしろ一緒にいてくれたらうれしいと思っている。
 だから自分の中の最高の笑みで、かなでは云った。
「――それでは、お言葉に甘えて……」
「〜〜〜っ! ……はい、では行きましょうか」
 そして並んで歩き出す。門のところまで行くと、八木沢以外のメンツがまだそこでじゃれあっていた。
「あ、かなでちゃん! おっはよう、早いね〜! 部長、どこ行くんだろうって思ったら、かなでちゃんがいたんですね。もうっ、隅に置けないなぁ〜」
 じゃれあいの中から二人に気付いた新がうれしそうに声を上げる。
「おまえ………気付かなかったのか?」
 呆れたように、火積が云うのに、新が口を尖らせる。
「火積先輩、気付いてたんなら教えてくださいよ〜!」
「おまえがそんなんだから、教える気もなかった」
「ええ〜っ!」
 そんな二人のやり取りに苦笑しつつ、かなではぺこ、とほかの部員たちに向かって頭を下げる。
「おはようございます」
「おはようかなでちゃん」
「うす、」
「おはよう」
「…おはようございます…」
 それぞれのあいさつを返すと、八木沢が云う。
「僕たち、もう一回、あそこへ戻るから、みんなはここで先に練習していて」
 云いながらトランペットケースを掲げると、皆は事情を納得したようだ。
「わかりました」
「えー、オレも行く〜!」
 新の言葉に、火積はしかめ面で云った。
「お前はダメだ」
「え〜!」
「うん、もうちょっと俺と楽しい最後のひとときを過ごしてくれ〜」
 がばっと新に抱きついた狩野の言葉に少しはっとして、しょんぼりとした様子で頷いた。
「は〜い、じゃあ、二人ともいってらっしゃい……」
 そう云ってから、新は狩野を抱き返す。
「大っ好きな狩野先輩と、今日はずっとずっと一緒ですよ?」
「ぐ、苦しいし、そこまでの愛情は求めてないぞ………」
「やめろ水嶋」
 狩野にしがみつく新を引きはがした後、手を上げた火積を八木沢はいち早く気付いて朝だから声をひそめるが毅然とした声で止める。
「こらこら火積、ほどほどにしなさい」
「部長、すいません。いってらっしゃい」
 火積は腕を下ろして、新をつかんで引っ張ると頭を下げた。
こうして二人は見送られて、寮を出た。
「普段はジョギングで行くので、どのくらいかかるかよくわからないんですけど……」
 門を出て、道を示しながら、八木沢は困ったように云った。
 かなでは少しだけ首を傾げると笑って、たっと足を踏み出した。
「じゃあ、走りましょう! 私、早く弾きたいです!」
 至誠館のメンバーよりも早く走れる自信はない。だけども、少し早くヴァイオリンが弾けるなら走りたい。
 迷うことなく駆け出したかなでを、八木沢は戸惑うように追いかける。
「ちょ、ちょっと待ってください。小日向さん!」
 すぐに追いつかれて、肩を掴まれる。思わぬ力強さにかなでが反射的に「痛っ」と声を上げると「す、すみません!」と八木沢は手を引っ込める。2人の足は止まった。
「すみません…加減が出来なくて……」
 勢いよく駆け出したので、八木沢もあわてたのだろう。普段自分に触れたり、向けられたりする手はとても優しいのに、ものすごく意外だった。同時に、あわてさせたことを申し訳なく思う。
「いえ、急に走り出した私が悪いんです」
「そんなことはありません! ……って、堂々巡りですね。――僕が貴女を引き止めたのは、走るのなら楽器をお預かりしようと思ったからです」
「あ、でも……」
 それはやはり申し訳ない。
 しかしそのかなでの戸惑いを消すように、八木沢はさわやかに笑って云った。
「僕は走り慣れてますから大丈夫ですよ」
 ――八木沢さんの『大丈夫』は魔法だ………。
 やわらかく優しい口調で、甘く囁かれると本当に大丈夫なような気がする。
 実際問題今の流れなら、本当に大丈夫なのだろう。
 走り慣れている男性の八木沢と、自分とではどうしても歴然とした差が出来てしまう。
「また、お言葉に甘えてしまって、すみません」
 云いながら、ヴァイオリンを渡した。
「こちらこそ、ありがとうございます」
 八木沢の言葉の意味がわからなくて、かなでが首を傾げると、八木沢はその表情を察し、少し頬を赤らめて云った。
「貴女の、大事なヴァイオリンを、僕に預けてくれて」
「〜〜〜〜〜っ!」
 ――でも、確かに、八木沢さんにヴァイオリンを預けても、戸惑いはなかった……。
 そう思って、かなでの頬も熱く、赤くなる。
「さぁ、走りましょう。貴女のいいスピードで走ってください。僕はそれに合わせますから」
 八木沢の言葉に頷いて、かなでは走り出した。

 公園に辿り着いた時、かなでの息は完全に上がっていた。
 かなでに合わせる、と云った八木沢は本当にかなでのスピードに合わせ、喉の奥が干からびているようなかなでをよそに、息も切らしていない。
 公園入ってすぐのベンチにかなでを座らせ、楽器を置くと、八木沢は「ちょっとすみません」と云って、姿を消した。
 戻ってくるまでに息が戻ればいい、と思いながら、かなでは八木沢を待っていた。
 ――こんなに朝早くに公園に来ることなんてあったっけ?
 かなではぼんやりと思い返す。けれども都会とはとても云えないかなでの故郷では、比較的いつでもヴァイオリンが弾けたし、こっちに来てからも大変なことばかりだったが、こんなに追いつめられることはなかった。
 至誠館に勝って、神南との戦いが近いからだろうか。
 ――至誠館も強かった…………けれど、あの時は知らなかった。
 コンクールで勝つということの意味を。
 だからこそ今、ちょっとつらい。勝つことは一番に、けれどもその向こうにも相手がいるということに。
 律たちについていくのに必死で、そのことを失念していた。
 ――でも、もう迷えない。
 ここに来る前とはもう違う。みんなと一緒だから勝ちたいのだ。
 かなではまなじりを上げて、空を強く睨みつけた。
 その時、かなでの前に影がさした。そして目の前に、ペットボトルが差し出される。
「小日向さん、よろしければどうぞ」
 その言葉に顔を上げると、八木沢がにっこり笑って、かなでを見つめていた。
「あ、ありがとうございます! ……って、お金、忘れちゃったぁ………」
 寮の外に出るとは思わずに、かなでは財布を持ってきていなかった。
「いいんです。一生懸命走ったご褒美です」
 八木沢はそう云って、かなでの隣に「失礼します」と断ってから腰を下ろして、自分の分を開ける。
「もし、気に入らないのでしたら、僕のでよければ、お取り換えします」
 ペットボトルを持ったまま、固まっているかなでを気遣うように云う。その言葉にはっと我に返って、かなでは首を横に振った。
「いいえっ!」
 それどころか、かなでの好きなものである。こういう細かいところにまで目が届いていることに、かなでは八木沢のすごさを感じる。
 飲み物もあったからか、かなでの息はかなり収まった。
「よし!」
 かなでは立ち上がって、ケースからヴァイオリンを取り出した。八木沢もトランペットを取り出す。そして立ち上がった。
「僕は少し離れたところで、練習しますね」
「あ、いえ…。八木沢さん、お願いがあるんですけど」
 ヴァイオリンを抱きしめてかなでが云うと、八木沢は微笑んで首を傾げた。
「はい、なんでしょう?」
 それにかなでは楽譜を取り出して、云った。
「この曲を…一緒に弾いてくれませんか?」
 昨日ずっとうまく弾けなかった曲。
 朝のさわやかな空気、そして優しい八木沢の音を借りれば、うまくいくかもしれない。トランペットを持って一緒に来てくれた時、かなでは八木沢と音を合わせることばかり考えていた。
「いいですよ」
 大きく頷いて、かなでが差し出した楽譜を見る。「これなら大丈夫です」そう云って、楽譜をかなでに返した。
「じゃあ、お願いします」
 そして音を合わせた。
 その時に、技術よりも大切なものが、かなでの予想通り得られた。
 ――この曲は大丈夫。
 太陽が照り出してくるまで、かなでと八木沢は弾き続けた。
 朝食前に戻る時、今度は徒歩だったが、またヴァイオリンケースを八木沢は持ってくれた。
 ――朝は至誠館、て感じ。
 今日も暑くなるだろう空を見上げて、かなでは思った。しかしすぐに否定するように首を横に振る。
 ――ううん、八木沢さん、なんだ。
 さわやかで優しい丁寧な人。
 この人がいてくれてよかった、と思いながら、朝の演奏の度に八木沢を思い出してしまいそう、と考えて、思わず赤くなるかなでに、かたわらを歩いていた八木沢は体調が悪いのかと気遣って、またかなでの顔を赤くさせたのだった。
 end 100523up



 実はこれ、3月から書いてました。さくっと終わる気配がないので、かなり放置していたのを発掘。なんとか終わらせられましたが、なんというか、ラブ遠めですね……。