さらり、と長い髪が八木沢の目の前で揺れた。
「え?」
 八木沢の知っている女性は小日向かなでという一年後輩の少女で、彼女の髪は肩くらいまでの長さである。
 地方大会に敗れて、八木沢たち至誠館のメンバーは星奏学院の寮に住まわせてもらっている。朝の練習をして、午前中と午後も練習したりするが、時々自由行動にしている。
 自由な時間をどうしていいのか、えい、と飛び出してもどこに行ったらいいのかわからなくて、八木沢は寮内で植物に水をやったり、麦茶や和菓子を作ったりしている。寮は住む人数が少ないせいか、こまごまとしたものは自分で作るようになっているので、キッチンは自由に使え、勉強や練習の合間に作って「ご自由に食べてください」とメモを残しておくとすぐになくなっていたりする。もっとも和菓子は部員たちにあげてなくなってしまう場合が多いけれども。
 今日も八木沢は寮の外で植物に水をあげていた。
 まめにやっていたら、わずかの間に自分の役目になったみたいで、これだけは何があってもやるようになってしまった。
 朝の練習を終え、午前中が自由にして、朝食を終えると外へ向かう部員たちを見送りつつ、八木沢は蛇口にホースをつなげ、水やりをしていた。
 外に出るよりも、こうしている方が落ち着く。出かけるのも好きだが、八木沢はほんの少し、大会が終わって疲労していた。火積が「負けられない」と事あるごとに呟いていたほどまでにはいかなかったが、八木沢も全力でこの大会にぶつかっていた。
 水をやる時はなにも考えないですむ。
 比較的ぼーっとしながら水をやっていると、目の前に、ひらり、と長い髪が舞った。
「……うわ!」
 不意を突かれた形で、思わずホースを取り落としそうになる。
 長い髪で思い出すのは神南高校から来ている土岐であったが、髪質となにより身体の大きさが違う。
 ――すらりとした印象は一緒だけど……、彼は僕よりも背が高い。
 戸惑った八木沢の視界が、長い髪の持ち主の全体像をとらえ、息を飲んだ。
 ――小日向さん以外の女の子………!?
 寮にいた印象はなく、記憶を懸命に探る。そうしている間に制服をまとった少女は、こちらを見て、微笑んだ。
「気持ちよさそうだな」
 少女の見ている先は、八木沢が握りしめているホースだった。彼女に水がかかることを恐れて、取り落としそうになった時に握り直したので、その水は八木沢を濡らしていた。
 我に返って、少女にも八木沢にも水がかからないようにホースを持ちながら、頷いた。
「ええ……今日は天気がいいので、水が気持ちいいです」
「そうか……ならば、私のせいで水がかかってしまった詫びはしなくてもよさそうだな」
 独特の云い回しで少しわかりづらかったが、少女は八木沢が濡れたことが自分のせいだと気付いたらしい。
 八木沢は首を横に振った。
「これは僕の不注意ですから」
 自分がもっと冷静に、動いていれば問題はなかった。
 まっすぐになりすぎて、周囲が見えてないこともままある八木沢なので、こういうことには慣れてしまっていた。ここに来た当初も、火積と新のケンカを止めようとして、彼らのもとへ駈け出したものの、段差に気付かず、盛大に転んでしまった。
「ふむ………つまらないな」
「え?」
 云われた言葉の内容を理解出来ずに、八木沢は首を傾げて、その言葉を何度も反芻する。しかしその言葉の意味をはかれない。
 戸惑いながら、少女を見つめる。
 その視線を受け、彼女はに、と笑った。
「もっと私に対して怒るなり、すればいいのに」
「服はすぐに乾きますし、あなたが現れた時に、きちんとホースを持てばよかったので――やっぱり僕のせいですよ」
 きっと冬でもそう云ったろう、と自分で思う。
「ならばその言葉に甘えよう」
 きっぱりした物云いに、八木沢は潔さを感じて心地良くなる。だからにっこり笑って頷いた。
「はい」
「変わったやつだな、おまえ……」
 少女の方が風変わりだとも云えるが、そこは追及せずに、八木沢は答える。
「そうですか? そういえば申し遅れました。僕は至誠館……」
 自己紹介と、ここに滞在している旨を伝えようとした八木沢の言葉は遮られた。
「至誠館高校、吹奏楽部部長の八木沢雪広だろう? 地方大会で星奏に敗れた後、ここに留まることになったことも知っているぞ」
 こまかいことまで知っていることに、八木沢は目を丸くする。
「すごいですね。……僕は記憶にないんですが、どこかでお会いしましたか?」
 問いに、少女は少し思案してから答える。
「いいや。顔を合わせるのは今日が初めてだ」
「そうですか」
「私の情報網を舐めてもらっては困る」
「はぁ……」
 どう答えていいのかわからず、八木沢は戸惑い気味に云う。
「そういえば、冷蔵庫にあった和菓子はお前の差し入れか」
 少女は不意に思い出したように訊ねた。
 寮の冷蔵庫の話だと気付くのに、数瞬かかった。少女が寮生かもしれないということはあまり考えていなかったのだ。
 夕食時に見かけたことがないから、今日たまたま小日向のところに遊びに来たのかと会話の流れで思っていた。
 しかしそうではなく、寮生だったらしい。
「そうです。……お口に合いましたか」
 和菓子屋を営む両親や祖父母に比べれば、自分の腕はまだまだだ。部員も、ここで食べてくれた寮生たちも「おいしい」と云ってくれるが、改良の余地はまだある。
 そうは思っていても、「おいしい」と云われるのはうれしい。
「多分、あの菓子なら、もう少しさらっとした味わいにすることも出来るだろう。けれども口に合ったぞ」
「〜〜〜〜〜っ!」
 皆が食べるものより小さめのものを作って、味見をした時に思ったそのままを云われ、八木沢は驚いた。
「すごい………」
 呟くように云った感嘆を、少女は拾って、不思議そうな表情をする。
「そうか。私は思ったままを云ったまでだ。しかし、専門学校に通わずに、あそこまでの味が出せるなら、立派だと思うぞ」
「家が和菓子屋なんです。だから見よう見まねで覚えました」
 八木沢の理由に納得したように頷いて、そしてまた考え込んだ。
「そうか………ならば、リクエストしてもいいか」
「ええ、どうぞ。材料と器具がここにあれば、作ります」
 家で取り扱う和菓子ならば、材料と調理器具が揃っていれば、たいてい作れる。
 少女はある和菓子の名前を云った。
 八木沢は頭の中でその作り方を考える。寮内と、あとは買い出しに行けば揃うし、器具の点も問題なかった。
「それなら大丈夫です……明日には用意しておきます」
「うれしいな」
 そこで少女は時計を見た。するっと軽い身のこなしで、八木沢から離れた。
「いけない。そろそろ時間だ。会ったことはないが、私も寮にいるからな。ああ、そうだ。その菓子を作ったら、冷蔵庫に入れる時、『ニア宛て』とメモをつけておいてくれ」
 一瞬、それが名前だとは思わなかった。
「ニア…さん?」
 確認するように、小さくつぶやくと、少女はにっこり笑った。
「なんだ?」
 どうやら正解だったようだ。八木沢も微笑み返す。
「ニアさんとおっしゃるんですね」
 するとニアは眉を寄せる。
「『さん』はいらない。気持ち悪い。お前より一つ下だし、ニアでいい」
「え…………!」
 八木沢は戸惑った。
 妹はいるが、血縁のない異性を呼び捨てにするのはあまり考えられない。男子校なので妹がいても、免疫もあまりない。
 わかりやすく顔色が変わったのだろう、ニアは興味深そうに笑って、八木沢に一歩近づいた。それに押されるように、八木沢は一歩下がる。
「ほら、呼んでみろ」
 面白そうにこちらを見つめる瞳も色気があり、八木沢は促されるまま、口にする。
「……ニ、ア……さ、ん、」
 名を呼んでみたが、呼び捨てはやはり抵抗がある。
「だから、さんはいらないって」
 ニアの言葉に、八木沢は素直に謝った。
「すみません! 努力はしますが、今はこれが限界です!」
 謝罪の言葉にニアは面食らったような表情をして、それからくすぐったそうに笑った。
「じゃあ、努力を楽しみにしよう。ではな」
「はい」
 八木沢は安堵の息をついた。そして今度こそ身を翻して、ニアは去って行った。

 翌日、冷蔵庫を開けたニアはふ、と笑みを漏らした後、顔をしかめた。
「早く慣れろ」
 ぼやきながら皿を取り出す。
 ニア指定の和菓子は約束通り皿にきちんとサランラップがかけられた、その中には名刺くらいのカードがあり、きっちりした文字で『ニア様へ』と書かれていたのだった。

 End 100324up
 創作の神様が置いて行った雪ニアは餌付け(笑)。