かなでは目を丸くしていた。目の前の出来事を受け止められずにいたのだ。
早朝の公園、しいかし目の前の風景は夢でないと思わせるくらいに日は昇っている。
そこには一人の人物がかなでに向かって、おだやかに微笑んでした。
「僕は至誠館高校、吹奏楽部八木沢雪広です」
「俺は狩野航、吹奏楽部副部長だ」
声はほぼ同時で、それは構わない。しかし、その発生源がほぼ同じところから発せられているとなると、かなでもさすがに混乱する。
――どう考えても、副部長さんは、部長さんのシャツのところで話しているわよね…………?
見ると、八木沢のシャツの胸元あたりに、狩野と思しき写真があり、こちらもかなでに向かって笑いかけている。
「あの、本当に、部長さんで、副部長さんなんですか?」
「ええ」
「ああ」
二人はほぼ同時に返事をした。
「僕はトランペットで、彼がチューバを担当しているんだよ」
八木沢の言葉にますますかなでの目は八木沢の胸元に行ってしまい、思考は錯乱寸前だ。
「かなでちゃん、すごいでしょう! うちの部長と副部長、すんごく仲いいんだよ!」
新の声が追い打ちをかける。
――な、仲いいとかそういう問題なの……!?
「ああ、うちは上級生の2人がいい連携でやっているんだ」
強面の火積も心なしか誇らしげだ。
――こ、これが普通って、至誠館って、強敵じゃなくて、驚愕ですよー大地先輩―!
心の中で叫びながら、「よ、よろしくお願いします」とかなでは云うのが精いっぱいだった。
出会いは衝撃だったが、かなでも火積や新のように、菩提樹寮で一緒に住むようになる頃には、部長副部長の共存にすっかり慣れてしまった。
時折、八木沢と狩野のように、律と大地が共生するのも、また面白いかも、と考えるようになった。
突然の事故で、狩野が八木沢のシャツに貼りついてしまったのだと聞いたが、2人とも特に気にする様子もなく楽しそうなのがうつってしまったみたいだ。
「いやー八木沢んち、和菓子屋さんだから、食生活は間違いなく上向きなんだよー!」
「僕も試食してもらえてありがたいよ」
かわされる2人の会話は、他の部員が云うように、常に仲むつまじい。
けれど、かなではちょっと前から、少しおかしいのだ。
2人が仲良く会話するのを見ているだけで微笑ましいのに、時々、胸になにか棘が刺さったような気持ちになる。
――なんでだろう、2人とも仲が良くて、すごく、うらやましいのに。
菩提樹寮に来る前も、寮に来てからも、2人ともとてもかなでに優しかった。
一緒に優しくしてもらったのに、かなでの心に片方の人物がかなりの比率で占めるようになっていたのだ。
――同じくらい、優しくしてもらったのに、どうして……?
そんなある日、眠れなくて、かなでは食堂に水をもらいに起きた。
手探りで、冷蔵庫を開け、水を探しているとぼそぼそ、と話す声が聞こえた。少し耳を傾けて、それが八木沢と狩野であることに気付いた。場所はラウンジだ。
「そろそろ離れた方がいいと思うんだけどなぁ」
ぼやくように、狩野が云うのに、
「そう、かな」
八木沢の声が気のない風に答える。
「だってさ、せっかく想い出作れるんだぜ? 作れる時に作った方がいいだろ?」
「想い出作りなら、一緒にいた方がいいんじゃないかな」
深夜なので、小声でもかなでのいる場所まで聞こえた。かなでは気になって、けれども見つからないように、そっと音を立てないように、その場にしゃがみ込んで、2人の会話にさらに耳をすませた。
「バッカ、俺との想い出じゃないだろ? 八木沢、お前、違うヤツと想い出作りたいんだろ?」
狩野の言葉に、八木沢が大きく息を飲んだ。
「で、でも………」
なにか云い募ろうとする八木沢に、狩野は遮るように云った。
「多分、念じれば俺も元に戻れんじゃね? 大会近いし、これでもチューバ出来るから、それでよかったんだけど」
答えない八木沢に、狩野はふ、と笑った。
「意外にさみしがりなんだよな、八木沢は」
苦笑気味の声に、八木沢は観念したように大きく息をついた。
「狩野くらいだよ、そんなこと云うの…………」
「ほらさ、ずっと一緒にいたからさ、わかんだよ。だからもうこのままじゃなくて、元に戻ること、考えようや」
「でも、………でも!」
「ん、なんだ? 俺に云ってみなさい」
ためらうように、何度か逡巡した後、八木沢が弱々しい口調で云った。
「―――でも、僕が想い出を作りたい相手は、僕と想い出を共有したいかわからないし」
「んじゃ、聞けば? ね、出ておいで」
狩野の言葉に、かなでは心臓がひっくり返るほど驚いた。多分、この場にいるのは、八木沢と狩野、それに自分だけだ。自分も隠れていたけど、他に誰か隠れているとは思えなかった。
思わず身を固くするのに、狩野は追い打ちをかける。
「名前で呼ばないと出てこれない?」
そして狩野はかなでの名前を呼んだ。
「えっ!!」
八木沢が驚きの声を上げる。名前も呼ばれてしまったのに、出ていかないわけにはいかず、かなでは立ち上がって、2人のいるところまで歩いた。
「あのね。聞いてたと思うけど、八木沢がね、君と想い出を作りたいんだって……君も、だよね?」
もはや確認のような問いかけに、かなでは水を両手で握りしめて、大きく頷いた。
「はい…………2人には、とても優しくしてもらって、でも、私、八木沢さんと、二人で出掛けたりしてみたかったんです………!」
狩野を傷つけるかもと思った。けれどもかなでは素直に自分の気持ちを云った。
――ずっと、気になってたのは、八木沢さん、だ。
2人はいつも一緒にいたのに、同じくらい励ましてもらったり優しくされたのに、八木沢に心が強く動いてし
まった。
自分の気持ちを正直に云うのは、泣きたいくらいに哀しいことなのかもしれない。
けれども、狩野が八木沢のシャツにいる以上、こういうふうになるのは仕方なかった。
「ほら、お姫様も、君をご所望だ」
「狩野………」
八木沢が困ったようにつぶやく。
「まあ、さ。とりあえず、このシャツを脱いで火積にでも渡してくれ。伊織でもいいが、水嶋だけは勘弁な」
あくまでも明るい口調で狩野が云った。
「でも………!」
「多分な、お前のところだから居心地がよくて、俺も戻らなかったんだ。火積も居心地よさそうだが、きっともとに戻れるよ」
それに、どう答えればいいのかわからずに、八木沢もかなでも、なにも云えない。
「まあ、普通に戻るんだ。それで解決だ」
狩野の言葉は、かなでの胸にも刺さる。
「狩野さん……、」
思わずかなでが呼びかけるのに、静かな狩野の声が降る。
「止めちゃ駄目だよ」
その声はもう決めてしまったのだ、とかなでにもわかって、もうなにも云えない。
「さぁ、八木沢、今日は夜遅いから、明日そうしよう、な。火積には俺が事情を話す」
ずっと黙っていた八木沢が口を開いた。
「――やっぱりやめよう、狩野」
「駄目だ! もういい加減にしろ、お前!」
声は抑えているが、強い言葉に、かなでは身をすくませる。
「俺は2人のラブラブなんか見たくないし、出来れば、自分でナンパに行きたいんだよ! ……そろそろ潮時だろう? 優しい部長も、引退なんだから、少しは我を通せ」
「狩野…………」
「今度は元の姿で、盛大に俺に菓子をごちそーしろ。な?」
狩野の言葉に、八木沢は大きく息をついて、そして頷いた。
「ああ、わかった。明日、このシャツを火積に預けるよ」
まだ未練の残る口調で八木沢が云うのに、狩野は満足げだった。
「よろしい。そうしたら二人で想い出作りに行って来い」
そして八木沢はかなでを見た。
「小日向さん、ごめん。……明日もし、都合が良ければ、少し一緒に出かけたいんだけど」
まなざしはやわらかく、しかし頬は少し赤くて、普段の八木沢のようだとかなでは少しほっとした。
「はい。よければ、一緒に、合奏したいです……」
明日、もう八木沢は狩野と一緒ではないだろう。その原因が自分にあることに罪悪感があるけれど、それでも二人きりなのがうれしかった。
「うん。じゃあ、トランペット持っていくね。あ、もうこんな時間だ」
八木沢に云われて時計を見ると、かなり時間が経っていた。明日出かけるのなら、もう寝ないといけない時間である。
「そうですね。――八木沢さん、狩野さん、お休みなさい」
「「おやすみ」」
このユニゾンが聞けなくなる、けれど、2人は元に戻っても、おそらく変わりないのだろう。そう思うと少しうらやましい。
自分の部屋に戻りながら、かなではそう考えた。そして、明日の約束に胸を弾ませたのだった。
翌日、八木沢は一人だった。そして2人は、初めての2人きりを満喫したのだった。
さらにその翌日。狩野の言葉通り、狩野はきちんと人間の姿に戻っていた。
「火積のところ、やっぱり居心地良かったんだけどさー…、なんかちょっととろんとした顔で見られるのが、
怖かった」
苦笑いで、狩野が話す。
シャツの狩野はどうやら火積の好きな「かわいいもの」に認定されてしまったようだ。普段と違う態度に、狩野が戸惑って(というより困り果て)、気が付いたら元に戻っていたらしい。
「ほうら、云った通りだろう?」
なぜか自信満々な狩野に、八木沢とかなでは顔を見合わせて苦笑したのだった。
end
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