彼の事情
暮れていく夕陽が歩いている俺たち2人の影を写す。
そんなふうに重なり合ってないのに、影で見る俺たちは仲睦まじく、身体の一部が混ざり合っている。
身体とは云わない。
心は、こんなふうに混ざり合えているだろうか?
俺はうまく話せない。毎日一緒に帰ろう、という誘いをオーケーしてもらえて、こうして同じ時間をわずかながらにでも共有していることをこの上ない幸せを感じながら、ささいな日常を楽しそうに語る彼女の話を聞くだけになっている。
そこに俺は登場しない。
歳は一緒で学年ももちろん同じ、学校も同じなのだが、学科が違う。
彼女が、リリにコンクールに巻き込まれなければ、こんなふうに互いが互いを知ることはなかったし、こんなふうに一緒に歩いているところもなかった。
この幸運には感謝している。彼女の持つヴァイオリンが、リリの魔法をかけられたものだと知っていきどおったことがあったけれど、それを失ってなお、彼女の音は澄んでいた。彼女は彼女なのだ、と思い知らされた時から俺の気持ちはまっすぐ彼女へ向かっていた。もしかしたら、その前からかもしれないが。
想いはまだ、告げていない。
今はセレクション中で、それからでも遅くないと思っている。こうやって、一緒に帰ったり、たまに合奏したり彼女の演奏を聞いたり出来るだけで充分だ。
話を聞くのはうれしい。俺に見えないところで、彼女がどんなふうに過ごしているか、知ることが出来るから。だから、しかたがないとわかっていても、割り切れない部分はあって――。
こうやっていられる幸せを噛みしめたい、と想う気持ちは確かにある。けれど、自分で決めたこととはいえ、彼女の距離を縮められないのはもどかしい。
俺は影を見つめる。
――こんなふうに、なれたらいい………。
せめて、心くらいは。
「ねえ、月森くん」
俺の気持ちがわかっているのかいないのか、香穂子は無邪気に俺を呼んだ。
話を聞いていなかったわけではないけれど、俺は無性に気持ちが荒立った。
「香穂子」
自分でも声が固くなったのがわかる。「え?」問い返す香穂子の声もそれを察知したのだろう、どこかぎこちない。
云うつもりはなかった。
すべてはセレクションが終わってから、そう考えていた。俺の気持ちに応えてくれるかわからないけれど、どうなろうと今を煩わせる気はなかった。
けれど、これだけは云っておきたかった。もう、決意を投げてしまったから。
大きく息をついた。そして言葉を紡いだ。
「俺はいつになったら――、『月森くん』じゃなくなるんだ?」
「えっ?」
驚いた表情の彼女に、俺はおびえた。嫌われたくないが、俺が、日野、から香穂子、に変わったのに、彼女は月森くんのままで、正直それが悲しくていらただしくて、自分の気持ちをもてあましてしまっていた。帰り、話さない俺の代わりに、今日の出来事を語る香穂子の話に俺が出てこないこともあせりに拍車をかけたが、今の香穂子の表情を見て、それが八つ当たりだと反省した。
彼女はしばらく俺の顔をじっと見つめていた。
惑わしたくなかった。それ以上に、嫌われたくないと思っている自分がいたのに気付いた。怒らすような発言をして、怒らないでくれ、というのはわがままかもしれない。
俺は彼女の顔を見返した。それ以外に出来ることはなかった。
「……確か………、云ってたよね? 呼び捨てにしてくれてもいいって………」
目を伏せ、考えるように口に手を当てて云う香穂子はあまり見たことがなくて、俺は驚いた。
夕陽が彼女のまつげに優しい輪郭を与えて、俺は一瞬、それまでのことを忘れて彼女に見とれた。だがすぐに自分を取り戻し、頷いた。
「云った」
はっきりと覚えている。不覚にもうっかり呼び捨てたことを彼女は許してくれたことがうれしかったから。その時に、こちらのも呼び捨てにしてくれて構わないと云ったはずだ。
確認するような彼女の言葉に、俺は眉を上げた。
「まさか、忘れていたのか?」
ついきつい云い方をしてしまった。
感情のコントロールは彼女がからむと難しくなることが最近わかってきた。今までもコントロールしてきたつもりはなかったが。
口調にあわてて、日野は両手を胸の前で振った。
「ううんっ、そういうわけじゃなくて――どう、呼んでいいのかずっと悩んでて………」
困った表情をさせるつもりはなかったのだが、その反応が俺には不思議だった。
「悩む必要はないだろう?」
呼び捨てにされるのはむしろ歓迎だった。
香穂子は「ええっ、」と小さく驚く。その後すこしの間考え込んで、ゆっくりと口を開いた。
「そうかな――だって、月森って呼ぶと男友達みたいだし、…れ、蓮って呼ぶのはなんかいきなりだし、………まだちょっと恥ずかしいし」
心臓が跳ねた。
蓮、と思いきり困って恥ずかしそうに呼ぶ彼女をこのまま抱きしめてしまいたくなるほど。
それくらいの衝撃だった。
むしろ、俺から頼んでそう呼んでもらいたいほどに、「蓮」と彼女の声が俺の脳裏をリフレインする。
「――蓮で、構わない」
云ったが、彼女の顔はまっすぐに見られなかった。
「ええっ、それは困るっ――困るよ………」
即座に返ってきた反応は、視線を彼女の顔に向けさせた。困った顔はどこか必死で、自分が悪いことをしているような気がする。
「どうして困る?」
名で呼ぶほどの仲でないと云うのか?
考えて、すこし胸が痛んだ。
まだコンクール参加者というカテゴリーから抜けていないけれど、それなりに仲良くなってきた、と思っていたのは俺だけか。
香穂子は一生懸命に首を振った。顔が赤い気もするが、夕陽が彼女の顔を照らしているからかもしれない。
「だって……私が平常でいられないもの。………名前って呼ぶものだし、呼ぶ度に、月森くんが私の方を見てくれるの、すごくうれしいから………、れ、蓮って呼ぶの、いいけど、すごくドキドキして………今も心臓壊れちゃいそうで………あんまり呼べなくなっちゃいそうだから、それが減っちゃうと困るっ」
彼女の言葉が、俺の心臓を壊しそうになったのに、彼女は気付いているだろうか?
訳を聞いて、俺のことを嫌いだから呼びたくないのがわかって、ホッとした。
俺も彼女も黙り込む。仲が悪いわけではなく、むしろ良いのだと確認出来たが、このことに関しての打開策を俺は考え始め、彼女も考えているのだろう。
だが手詰まりな気がする。
ひとつ方法はあった。「月森くん」――元に戻すこと。今なら納得出来そうだったが、自分からは云い出したくなかった。
時間をおいて、香穂子に問うた。
「どうすればいい?」
香穂子が顔を上げた。悲愴な思いつめた表情をしている。こんなふうに追いつめてしまったのか、と俺は申し訳なくなる。
小さく口の端を上げて薄く笑んだ香穂子が、俺の耳もとに顔を寄せる。身長差があるので、香穂子は身体を伸ばし、俺は軽く屈んだ。
「これも………恥ずかしいんだけど、蓮さんか蓮くんってダメ?」
囁きが俺の心臓を甘くさせた。
そ、それならまだ呼べるかも…、かぼそく言葉を継いだ香穂子に、俺は頷いた。
「なかなかの名案だ――俺は蓮でも構わなかったんだから、たくさん呼んでくれよ」
俺の言葉に香穂子がやわらかく微笑んで頷いた。
香穂子が身を寄せたことで、俺たち2人の影はもっと重なり合って、それが今の状況を表わしているみたいで、俺はこっそり笑った。
end
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