彼女の事情
2人で夕陽の中を歩くのが好き。
一緒に帰ってくれるのはうれしいけれど、月森くんはいつも黙ってて、私しか話さない。
すこし不安になる。
話をするのは楽しいけど、月森くんは私といて、楽しい?
毎日一緒に帰ろう、と云ってくれたのは月森くんだった。
そう云ってくれるとは思わなくて、気が変わらないうちに、って勢い込んで頷いたら、勢い良すぎて前につんのめって月森くんにぶつかっちゃって、彼は笑って許してくれたけど恥ずかしかった。
月森くんとは、妖精のリリに巻き込まれて参加することになったコンクールで知り合った。
友達に云わせると、普通科のほうでも有名だったらしいけど。
見えた、というだけでちょっとずるっぽく参加することになって、初めは嫌だったし、月森くんには「そういうのは不快だ」と云われてかなりショックだったけど、彼の音楽に触れて、彼を知ることが出来たのは運が良かったと思う。
彼の音楽はすごい。
音を聞いた時、ただただ感動した。
顔はきれいなのに、いつも無表情だし、言葉は全然優しくないしって、私から見たら良いところも嫌なところが覆っちゃう感じで。私なんてはじめからライバルに扱ってないでしょ?ってくらいの態度で、それでも私のこと、ヴァイオリニストと扱ってくれて、なんだか不思議な人だと思ってた、だけだった。
――あの音を聴くまでは。
聴いた時、全身に鳥肌が立った。その後、頭がくらくらした。しびれるってこういうことか、とぼんやり思いながら、耳は懸命に彼の音を追ってた。
ライバルじゃない。もうずっと、私の先を行ってる人で、行く人だと感じた。
でもそれじゃあ、口惜しくて、魔法のヴァイオリンだけど、一生懸命練習した。そのせいでヴァイオリンは壊れちゃって、今のは魔法はかかっていないんだけど。それでもあまり苦もなく弾けるようになったのは、あのヴァイオリンとの練習があったからだと私は信じてる。そして、月森くんを追いかけようとした自分のやる気。追いついてはいないけど、スタートラインには立てたかな?
月森くんは嫌だったろうけど、ヴァイオリンを弾く人がいなかったので、出来るだけ会話を持つようにした。そうして彼に触れていくうちに、内面はとても豊かな人だと知った。私から見てギャップのような不思議な感じの謎が解けた。
そうしたらすこん、と彼自身にもハマってしまった。
だから今、とても幸せ。ちょっとだけ、先のことを考えてしまうけど、それはその時でいい。まだ、彼を困らせたくない。
いつの間にか、日野さんから香穂子と呼んでくれるようになった、今の私には充分すぎる。
飽きないかな?
毎日一緒だから話題もほとんどなくて、その日にあったことばかりになってしまう。沈黙が怖いから、黙るということは出来ない。一度、2人黙って自然の音に耳を傾けながら、帰るのもいいかなって思って実行したけど、すぐに断念した。
だから、今日も話している。
「ねえ月森くん」
なんとなしに呼びかけた時だった。
月森くんが、違う気がした。なんていうのかな、彼を取り巻く空気が変わった、気がしたのだ。
どうしたのかな? なんだかドキドキして、月森くんを見ようとした、けど、出来なかった。
「香穂子」
声が違った。
――どうしよう、怒らせたかな? ………でも、どうして?
なに? となにげないふうに問い返したかったけれど、声がのどに張りついて、うまく声が出せない。
私に対する月森くんの空気がやわらかくなっても沈黙に耐えられなかった私が、この沈黙に耐えられるはずがない。なにか、なにか云わなくては、とあせるが今度は言葉も出てこない。頭に冷水をかぶせられた気になってくる。
すると、それに焦れたのか、彼が口を開いた。
「俺はいつになったら――、『月森くん』じゃなくなるんだ?」
「えっ?」
――どういうこと?
思わず声が出てしまった。
話の内容がつかめない。多分、私は月森くんを怒らせてしまったけど、ええっと、ちょっと待って………「月森くん」じゃなくなるってことは………月森くんて呼ばれるのが嫌なんだよね? あっ、ちょっと前、あれはつい「日野」って呼ばれた時………。
一生懸命考える。けど、月森くんのことは結構きちんと覚えていて、そんなに苦じゃない。その時の気持ちを思い出したりもするから、そこは急かしちゃうけど。
そうしているうちについ、月森くんの顔を熱心に見つめてしまった。目が合って、私はあわてて目を伏せて記憶をたどりながら云った。
「……確か………、云ってたよね? 呼び捨てにしてくれてもいいって………」
記憶がよみがえってくる。
『俺のことは呼び捨てにしてくれても構わない』
ちょっと優しい声で云われて、すごくうれしかった。同時にその時、悩んだのだ。
――つ、月森って、ちょっと………呼べないかも。
だからといって、名前で呼ぶのはまだ日野になっただけだから、なれなれしいかも、と思って、結局そのままで呼んでいた。彼は特に気にした様子もなかったから、それでいいと思っていた。名前で呼ばれるようになった時に、私も勇気を出して云えば良かったのだけど、月森くんの声音に心臓が止まりそうになって、それどころではなかった。香穂子、と呼ぶ声が甘い気がして、頭がびりびりしてしまったのだ。
そんなことを思い出した私は、月森くんの答えに慌てる。
「云った」
――うわあ、責められてる。
意外、と云うような表情をされた。
「まさか、忘れていたのか?」
あわてて首を振った。
ふと、月森くんの一挙一動にハラハラしながら、もうどんなきっかけで月森くんを怒らせてしまったのかな、と考えてみる。
「ううんっ、そういうわけじゃなくて――どう、呼んでいいのかずっと悩んでて………」
ホントはちょっと忘れてたけど。
気持ちは今も、変わらない。一歩進んでみたかった。でもそのチャンスを逃してしまったら、もうセレクションが終わらなきゃダメだ。セレクションが終わっても、こうやって一緒に帰ったりしたい――そう云いたかった。今も云えるなら云いたい。月森くんが私の話に退屈していたとしても。
私はそんなふうに突っ走れる。
けれどそれは自分のわがままでしかない。
コンクールは大事なものだと聞く。将来に関わるようなものになるとも。リリはそれは違うって云ったけど――あれはあくまでファータ主催のコンクールなだけらしい――あとは最後のセレクションだけ。音楽科の人にそう云われるものなら、私も大切にしたい。
「悩む必要はないだろう?」
一生懸命、ない脳みそフル回転でいろいろ考えてるのが馬鹿らしくなる声が降ってくる。
まだ怒ってるの? と云い返したくなったけど、これはチャンスなのかなって言葉を継いでみた。
「そうかな――だって、月森って呼ぶと男友達みたいだし、…れ、蓮って呼ぶのはまだ許可をもらえないような気がしたし、まだちょっと恥ずかしいし」
口の中で名前を云った時、自分の気持ちが飛び出しそうだった。
まだ早い、と気持ちを落ち着けながら、自分の考えるステップアップ作戦がある意味失敗だったことを悟った。
矢継ぎ早に返ってくる答えが返ってこないので、そろそろと目を上げてみて、私は驚いた。
――月森くん、顔、真っ赤………。
すこし照れたような顔は見たことあるけど、こんなに赤いのは初めてかもしれない。夕陽のせいだけじゃないのはわかる。
「――蓮で、構わない」
どうしてこう、迷わないかな。月森くんみたいに誰もが道が見えてるわけじゃないんだけど、月森くんにも見えない道があるって知ってるからそれは云わない。
私はまた慌てる。
本当なら、そう、呼びたかったけれど、呼ぶ度にこんなになったら心臓がもたない。
「ええっ、それは困るっ――困るよ………」
「どうして困る?」
――だからどうして、言葉に迷いがないの?
でも、月森くんの表情を見ると、気落ちしている?
それは違うの。
恥ずかしいけど、月森くんの誤解は解かなくちゃ。
「だって………私が平常でいられないもの………だって、名前って呼ぶものだし、呼ぶ度に、月森くんが私の方を見てくれるの、すごくうれしいから………、蓮って呼ぶの、いいけど、すごくドキドキして………今もドキドキしてあんまり呼べなくなっちゃいそうだから、それが減っちゃうと困るっ」
云ってるうちになにが云いたいのかわからなくなってくる。
――お願い、伝わって。
祈るように、月森くんを見ると、かたかった空気は消えた。それに安堵しながら、新たになにか思案した表情になっていて、呼び名問題(ってそこまで大袈裟じゃないけど)はスタート地点に戻ったことに私も気付いた。
――どうしよう………。
多分、月森くん、では駄目なんだ。――月森くんじゃなくて、私が。
やっぱり――考えるだけで速くなる鼓動を感じながら、やっぱり云ったものの、月森くんが許可してくれた呼び名にしようと思った時、ふとひらめいた。
口の中で小さくつぶやく。
まだ心臓に悪そうだけど、これなら大丈夫かもしれない。
「どうすればいい?」
云おう、と思った時に声をかけられた。彼は、私の心を読んでるのだろうか?
決めたけど、云うのは恥ずかしい。まっすぐ見つめて云うのはまた心臓が止まってしまう。
私はきゅっと右手で小さく拳を作って、月森くんを見た。
――ダメだ、云えない、かも。
決意が揺らぐ。でもうながしてくれるのだ。
私は思いきって、月森くんの耳元に顔を寄せた。――これなら大丈夫?
月森くんは背が高いので、身体を伸ばした。月森くんが屈んでくれたのが同時で、ふとおかしくなった。
「これも………恥ずかしいんだけど、蓮さんか蓮くんってダメ?」
そ、それならまだ呼べるかもしれない、と付け加えた。まだって云うあたりが情けないんだけどね。そのうち慣れるといいんだけど。
月森くん…じゃない、蓮くんの頭がゆっくりと縦に振られる。私はホッと息をついた。
「なかなかの名案だ――俺は蓮、でも構わなかったんだから、たくさん呼んでくれよ」
私を見つめながら蓮くんに云われた言葉に、私は大きく頷いた。
いろいろ緊張してしまったけど、一段落したのとすこしは仲良くなれたかな、という思いが私を満たしていたが、はたと思い出した。
「れ、蓮くん」
呼びかけに、優しいまなざしで「なに?」と聞いてくる。
「あの、あのね、いつも私ばっかり話しちゃってるけど………いいのかな?」
蓮くんは話すのがあまり好きではないと思う。いつでも聞く体勢は整えているけど、タイミングが悪いわけじゃないと思うんだけど。もっと話してほしいけど、私は一緒にいられるのがいい。
「ああ、すまない。――きみといるとうまく話せなくて――それに、きみの声が聞いていたくて、つい………」
それならいいけど。
今日何度になるか覚えてないけどホッと胸をなで下ろした私に、蓮くんは微笑んで、すっと屈んで耳もとに顔を寄せて云ってくれた。
「香穂子といるのは本当に楽しいよ」
心臓に、キスされたみたいな気持ちで私は、ひとつに重なりそうな私たちふたりの影を見ていた。
end
|