Spring Fever


 もうすぐ初夏が訪れる。
 陽射しは心持ちまぶしく、からっと気持ちのいい晴天が続く。しばらくすると雨期が来て、そしてうっとおしいくらいの猛暑がやってくるから、今くらいの季節が過ごしやすい。
 陽も延びて、コンクール中よりは同じ時刻に下校しても、まだ明るい。
 変わったのは陽だけではない。
 月森は思う。―――少なくとも、自分は。
 コンクールに出たくらいでは変わらないだろうと思ったし、今までも変わることがなかった、音楽への考え方。そして、月森のかたわらを歩く人物。彼女はコンクールの途中から月森と登下校を共にしている。もちろん、月森が望んだことだ。
「まだどこか寄れそうなほど、明るいね」
 歩きながら漏らした日野の言葉に、月森は彼女を見つめる。
「どこか寄って帰ろうか?」
 それだけ長くいられるなら、それもいいかもしれない、と思って云った月森の言葉に、日野は首を振る。
「ううん、今日はいいわ。――もうちょっとでもいいから、蓮くんと一緒にいたいけれど」
「俺も一緒にいたい」
 同じ気持ちなのがうれしくて、月森も同意する。
 ふふ、とその反応に日野は幸せそうな笑みを浮かべてから、月森を見た。
「代わりにね、日曜日、空けてほしいの」
 よほどの都合がない限りは日曜日も日野と過ごしている。あらたまることはない、と月森は思ったが、そうする理由があるのだろうと気付いた。
「構わないが、なにかあるのか?」
 なにげない問いに、日野は避難めいた瞳を月森に向ける。そんな表情もかわいい、と思いながらも、必死に自分の記憶をたどる月森である。
「蓮くん、教えてくれなかった………」
「なにを?」
 日野がなにを拗ねているのか、月森はまったく見当がつかない。
「誕生日。とっくに過ぎてたなんて………付き合ってひとつきも経つのに、今頃知るなんて、もう………!」
 最後の憤りは日野自身にぶつけていたらしい。なのに、月森も申し訳ない気持ちになる。
「すまない。誕生日なんて、ある意味記号みたいなものだと思っていたから…、云う必要どころか当日なにをしていたかさえよく覚えていない」
 家族にお祝い云われたりするくらいであるし、学校の女子からプレゼントを断るくらいだ。それ以上特になにもない。実際自分が誕生日として意識して記憶しなくてはならないことは、なかったはずである。
 日野は月森の反応を見て、笑みを浮かべる。嘘はない、とわかったのだろう。
「蓮くんらしいっていえば、そうだけど。―――だから日曜日は私に誕生日を祝わせてほしいの」
 日野の言葉に月森は胸の奥があたたかくなるのを感じた。
「ありがとう、うれしいよ」
 やっと日野は心から笑みを浮かべた。そういうささいな幸せのほうが味気ない誕生日より意味のあるものだということに日野は気付いているだろうか?
「なにか欲しいものとか、行きたいところとか、してほしいこととかある?」
 日野の問いに月森は考える。
 欲しいものはとりたててない、行きたいところも日野と毎週のように出かけているのですぐには思い浮かばないし、してもらいたいこと……はあるといえばあるが、それをプレゼントにするのはなにか違う気がする。
 向けられる視線が期待にあふれて痛かったのと、これ以上のばしても答えは変わらない、と判断して、月森は重そうに口を開いた。
「―――特にない」
「そっかあ、残念。せっかく一生心に残るような誕生日プレゼントを送りたいなって思ったのに」
 その言葉に、月森は吹き出した。
 ――なにを云うのだ。
 思って、やはり日野からは何も望めないと感じた。
「ダメ? やっぱり誕生日当日っていうのが大切だった?」 
 反応に、日野は泣きそうな表情になる。その日野の手を取って、月森は包み込むようにやわらかく握りしめる。
「――そうじゃない。プレゼントなら、俺はもうもらってるからいらないんだって、思ったんだ」
 月森の言葉に、不思議そうに日野は目を丸くする。
「どういうこと?」
 問いに、月森は穏やかに笑みを浮かべて、日野を見つめた。
「………たくさん、もらった。自分の感覚を研ぎすまされるようなきみの音楽、解釈、きみと過ごす時間、きみが俺のために弾いてくれるあの曲――そして、きみを好きだという気持ち。―――全部、香穂子がくれたものだ」
 誕生日なんて関係ない。そう思うくらいに日野に出会えたことに感謝している。今の年が始まって、一番特別な出来事はもしかしたら人生一番のことかもしれない。
 音でしか生きてこなかった自分は、音と自分さえあればいいと思っていた。それは変わりない。自分は音とともにこれからも生きていく。――けれど、そこに彼女が入り、音と自分だけだった世界が急に広がった。これからの自分の音に、なにより自分に必要なひと。
 彼女がすべて自分のものになっていないけれど、こうして自分の手を取ってくれた。そして今も時間を共有してくれている。それがどんなに幸福で幸運なことだったのか、彼女は知らないだろう。
 繋いだ手が、強く握り返されて、月森は日野を覗き込む。
「……は、恥ずかしい………」
 視線を逸らせるように少しうつむけた顔は夕陽に染まったわけでなく赤かった。
 自分もそれがうつったかのように身体が熱くなるが、それでも云った。
「でも本当のことだ」
「もう。蓮くんのお誕生日の話をしたのに、私を喜ばせて、どうするのよ………」
 日野は月森を睨むがいまいち迫力に欠けている。
「すまない」
 素直に云われて、日野はひるんで、しかたないというふうに息をついた。
「……………日曜はなにかとっておきのを考えておくわ。あー、どうしよう」
 悩んでいる日野を優しく見つめていた月森はあることを思い出す。
「そうだ。ふたつ、お願いしたことがある」
 日野は藁をつかむ勢いで目を輝かす。その日野をかわいい、と苦笑する月森は、日野の期待通りでない願いを云うために口を開いた。
「香穂子の誕生日と来年の俺の誕生日は一緒に過ごしてほしい」
 目を丸くした日野は、憮然と云った。
「そんなの、当たり前じゃない」
 今日は自分の誕生日でもいい、と月森は思った。
 end



20040424up 誕生日ではない誕生日。月森誕生日はコンクール中だと思ってたり(もしくは後)。