桜花
――花がきれいだと感じるようになったのはきみのせい。
新しい学年になる。
最高学年になって、その自覚とは別にここから出ることばかりを、月森はいつも考えていたような気がする。当たり前のようにここまで来た。ここを出てもまだ見える先に、迷う理由はない。――なのに。
「きれいね」
桜の花に目を奪われる日野の声に、月森は視線を向けた。月森からすれば、興奮して頬を上気させ、目を輝かせている日野の方がよほどきれいだと考えるが、言葉に桜に目を転じた。
いたるところに咲き誇る花を、改めて目にする思いだった。ここは慣れた通学路。それなのに、日野がきれい、といえば、こんなふうにすぐに違う視線で見てしまうことに苦笑する。
「………きれいだ」
薄い色の桜の花は数でその薄さを存在感に変えてしまうような、圧倒さがある。ただの風景を、どこか特別に変えてしまうのはいつも日野。
それが彼女の音楽を生み出しているのだろう。
もう魔法のヴァイオリンは必要無い。なくても彼女はもうヴァイオリニストだ。
同じ楽器を手にする人の手は選ばないとどこかで思っていた自分は、なのに、彼女の手を離したくなかった。笑顔で手を握り返してくれた彼女に心揺らされる日常。自然に月森のヴァイオリンにも活かされていく。日々が色をつけて輝いている。
「初めて桜見たような口調ね」
日野の言葉に月森は頷くかわりに薄く笑む。
実際そうなのだ。風景と自分は違うもので、それは認識する必要を感じなかったのだ。
「散るのは覚えている」
舞い散る桜は月森の脳裏に多少残っている。去年のセレクション、桜散る中、彼女が云ったからだ。
うん、と日野は頷いた。
「散る時もすごいよね、桜って……散っていくのにきれいって変かもしれないけど………ここにね、すごく来る」
云いながら、胸を指差す。
その時、月森は別のことを考えた。
――ああ、そうか。
「弾いて、すぐに散ってしまうのもいいかもしれない」
そんなふうに刹那に生きてはいない。けれど、音楽というものがいかに刹那なものかも知っている。生の音が活かされるのは演奏している間しかなくて、それを永遠にする方法をなんとなく模索している。録音とかでなく、もっと違う―――。
それを明確にしたのは日野だった。
実際、日野の演奏が月森に永遠に近いものをもたらしたのだ。
演奏を、人の心に残す。知っていたのに、その当たり前のことに気付かなかった、そのあと、自分でもわかるほど、音が変わった。
去年見た散る桜を思い出す。あの桜のように咲いて、盛大に散っていく。懸命に弾いた演奏が人の心に残っていくなら、そうしたらそのまま自分が消えてもいい。演奏は残っていくのだから。
日野は目を見開いて、足を止めた。
自分の中から自然に出たことだった月森には日野の行動がよくわからず、それでも立ち止まって、日野を覗き込む。
「そんなのは嫌」
珍しくきっぱりと強い口調で、日野は云う。ぎゅっと月森の制服を握りしめた手が、かすかに震えている。月森はその日野の手に自分の手を重ねて、包み込むように握りしめる。――願わくば、震えが止まるよう。
けれど、とりなしたりは出来なかった。
云ってしまってから、それが月森の本心だと気付いたからだ。
刹那的かもしれない。けれどそこまで響く音楽を弾けて、音だけ残して自分が無になってしまうのにためらいはない。音楽だけで生きてきた。だから音楽でいなくなるのもいいかもしれない。
弾くことに深さを与えたのが彼女なら、そうやって刹那でもいいと思わせたのもきっと彼女で、刹那では嫌だと思い留まらせるのも彼女だった。依存でない。彼女には彼女の音楽があるように、月森には月森にしか出せない音楽がある。彼女と云う存在を得てなお、それは重なり合うことはなかった。だからこそ意味がある。
止めてくれることを幸せだと笑んだ。日野が云ったら、やはり自分も止めていただろう、とやっと思い至った。
目を閉じて、日野の体温を感じながら思った。
自分には音楽と日野だけで、いい。
end
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