いつか、はきっと必ず(アンコール、通常ルートのネタバレ)



 生まれた時から音楽のそばにいて、これからも音楽のそばにいるあなたに。
 だから、さよならは云わない。

 ――月森の留学が決まった。
 月森の選択は始めから決まっていた。
 そういう選択を迫られた時に、それ以外を選んだらきっと日野は驚いただろう。そのくらい自然な選択だった。
 それでも、わかってしまうとやはり、離れてしまうのが淋しい。
 ――変わってしまうから、待つとも云えない。
 リリに会う前の日野なら「待っている。必ず想っている」と恥ずかしいけど云えただろう。
 だけど、リリに会ったことで日野は思わぬ道を選ぶことになった。音楽科が併設することに特に何も思わず、家から近くてレベルもちょうどよかったという理由で選んだ高校の、その意識しなかった音楽に、音楽科の人々に触れることになるなんて。
 あの時、大きく変わった日々に、変わらないものはないのかもしれない、と思った。
 自分が自分のままでいられたかも振り返ってみれば出来たかどうかわからない。そう、自分はリリに会う前から大きく変わったように思う。自分らしく、と云い聞かせながら、それでも以前の自分はもういないほどに静かに変わっていったような気がする。変化のおおもとは、リリが与えてくれた音楽にあった。だから変わってしまってもこれが自分なのだ、と日野は受け入れた。妄想するしかないほどに、音楽にのめり込んでいった。
 その中心に月森がいた。
 音楽と関わる時に、月森の音に惹かれ、そしてその人物に惹かれた。素っ気無くて冷たいかと思えば、演奏する者として本当に他人を尊重した。そのギャップに驚いた。
 ――この人は本当に音楽がすべてなんだ………。
 孤高にいて、それでも視線は意外なほど近くて優しい。魅せられずにはいられなかった。
 日野とは少し違うけれど、月森が自分を想ってくれていると知った時は、本当に夢じゃないだろうかと頬を何度もつねった。人を見る視線は優しかったけれど、彼にとって家族以外の誰かが音楽と同じくらいに特別な人物を作れるような気がしなかったから。
 そんな音楽にすべてを捧げている人が、音楽留学を選ばないとしたら、それはよほど日本の音楽でやりたいことがあるからだろう、と日野は考えていた。それに、ゆくゆくは留学を視野に入れていることは聞いていた。
 ――ちょっと早かったな………。
 留学の尺度としては早いか遅いかわからないが、日野にとっては、早かった。
 蜜月のような甘い時は高校の卒業すら待ってくれないほど短かった。
 それでも、月森の邪魔をする気はなかった。決めた時の話で、道を選ぶ時に自分のことを思い出してくれて、それだけでも充分だ、と思った。
 だから日野も云った。
「私の中には音楽があるけれど――わからない。いつまで待てるか約束は出来ない。だから、待たない」
 本当は待ちたかった。
 1年か2年なら待てる自信があった。だけど留学の話を聞いた時、「期間がわからない」と云われてからずっと考えて出した結論だ。
 月森は自分を買ってくれているが、月森と同じレベルに立てるとは思えない。そうなるのは本当に先のことだ。追いかけるつもりでも、月森は更にまた先に進んでしまうだろう。
 それまでも想い続けていられる気はする。――それだけ、深く刻み込まれてしまったから。
 だけどそれは自分の中のことで、口に出すのはためらわれた。
 口に出したら、約束になってしまう。
 そうするにはまだ日野の勇気は足りなかった。
 甘い時間は時々胸が張り裂けそうなほど切なくて、それでも月森と時間を重ねたかった。
 クリスマスのコンサート、それから冬のアンサンブル演奏会にコンサート――そして共演は叶わなかったけれど、市の音楽祭にも来てくれた。
 月森に追いつけないと悩む日野に次々と現れる音楽の道。だけどそれは一時的なような気がして、月森に待っている、とも追いかける、とも云えない自分がいた。
 市の音楽祭が終わってから、月森が旅立っていった。
「別れ難くなるから、駅まででいい」と云われたので、駅まで見送った。
 早めに駅に行って、月森を待とうとしたら、もうすでに月森がいた。
「きみを待っているのも最後だから、思う存分きみのことを考えながら待っていようと思ったのに………」
 少し驚いたように自分を見てから、困ったようにそれでもうれしそうな笑みを浮かべて月森が云った。
 この人は本当に遠くに行ってしまうのだ、と考えると涙が込み上げそうになる。それでもかろうじて堪える。
 そうして二人で駅のホームの人目のつかないところで手を繋いで、何本も何本も電車を見送った。
 愛しい、ヴァイオリンを引く、月森の手――。
 離せないし、離したくない。
 それでも、時間は迫る。そんな中で月森が云った。
「俺が奏でる度、きみを想い出す――きみも奏でる度に、俺を想い出して欲しい……」
 笑おうとしたのに、その言葉に凍りついて、それがうまく出来たか日野にはもう自信がなかった。ただ声だけは笑ってしまった。
「蓮くんは私を縛っていくのね」
 縛れない、とクリスマスの時に呟いた言葉を裏切るように。小さかったその囁きは、日野の耳にはっきり届いていて、そう云うならきちんと縛る、と云って欲しいとすら思った。あの日さえもう遠い。
 月森もそのことを思い出したような表情をして、自嘲的に微笑んだ。
「縛れないってわかっていても、云いたかった」
 ふふ、と日野は笑う。
「でも、私だけじゃなくて、蓮くんまで縛るなんて、蓮くんらしい」
 月森も穏やかに微笑んだ。そして首を横に振る。
「俺のは――縛られるわけじゃなくて、実際にそうなんだ。音を出す度に、きみを、きみの音を思い出す。きっとこれからもそうだろう」
「私もそうなの。音楽を続ける限り、いいえ、ヴァイオリンを奏でる限り、私は蓮くんを思い出すの」
 そして愛しさと羨望の気持ちで追う、とまでは云えなかった。
「求めあう二人の音色同士がいつか重なればいい」
 月森の言葉に、日野は頷いた。
 待っている、と云えなかった日野の気持ちは完全に見透かされているのだ。
 やがて、月森が乗る電車が来た。これに乗らなければ飛行機に間に合わない。
 ぎゅう、と月森が日野の手を強く握ってから、名残り惜しむような触れ方で、手を離した。
「また、いつか」
 日野の答えを待たずに、月森が云った。日野はそれにも答えられずに黙って頷いた。
 月森は日野がなにか云うのを待っているようだった。答えられないから別のことだが本当のことをありったけの気持ちを込めて云う。
「蓮くんの音、好きよ」
 電車が動き出す。
 日野の言葉に、月森は満足そうな笑みを浮かべて、頷いていた。
 ――早く家に帰って、ヴァイオリンを弾こう。
 泣くのはそれからだ、と日野は踵を返した。
 いつか会えることはいつも心のどこかで信じていた。
 だから、いつかまた会う日まで、日野の音は月森を今よりいっそう想う。           

 end




20070923wrote 20071001up イベントに出かけるまでのタイムリミットが怖かった


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