過ぎし日々のこと
高校に足を踏み入れる度に、思い出す人がいる。
大学に進んでも高校には割と用があって、訪れるごとにあの日々のことを真っ先に思い出す。
かつ、と門から一歩入ったところで、耳が音色を拾った。振り仰ぐように、その音を辿る。かすかに聞こえるくらいだから、ここからは演奏者の姿は見えないだろう。自分の動作の無駄さに、都築は独り笑った。そして思う。
――相変わらず、楽しんでいる音ね。王崎くん……。
そして都築は校舎の方に向かった。
市の音楽祭の指揮をつとめることになった都築は、そのオーケストラのコンミスの肩書きを知って驚いた。
今年のコンクールの参加者なのはいい、だが彼女は普通科の生徒だった。
今回行われたコンクールは普通科の生徒がいたことは都築も知っている。成績も同じコンクールに参加した音楽科の生徒と甲乙つけ難いものであったことも。
それに感心していたが、オーケストラになれば話が違う。
コンミスを推薦した吉羅理事長の許可の元、アンサンブル演奏を行って、テストをすることになった。それに彼女は都築の予想以上のものを披露してくれた。オーケストラの経験はないとのことだが、そのアンサンブルを発表するまでも、オーケストラについて必死に勉強していた。人をまとめるにも適している。経験は都築が補えばいい。そう考えて、都築は彼女をコンミスとして認めた。
実際、よくやってくれている。
今日はその途中の成果を聞きに行く日だ。
指揮者として、頑張る彼女がオーバーワークしないようにチェックするのも今は兼ねている。
王崎も彼女の協力をするのは知っている。少し前に、王崎とは会ってそのことを聞いている。
――だけど。
都築は校舎に入る寸前、王崎の音が聞こえた方向を振り返る。
「ここで音を聞くのは久し振りね」
独り笑んで、都築は校舎の中に入った。
ここに来る度によみがえるあの想い出は、今は遠い。
「都築さん、」
校舎を出た時に呼びかけられた。声に振り返ると、校舎に入る時に聞いた音色を奏でた人物が立っていた。
まさか会えるとは思わなかったので驚く。そしてわざとらしくため息をついた。
「まだいたの? 王崎くん。もう大学に戻ってるかと思ったわ」
都築の言葉に王崎は目を丸くし、そして微笑んだ。
「俺が来てたの、知ってたの?」
うれしそうな言葉に、都築のほうが恥ずかしくなって、視線を軽くそらす。
「来た時に音が聞こえたの」
微笑みが深くなったのが、気配でわかった。それが王崎らしいと都築は思う。
「ああ、聞いてくれたんだ。今日、これからオケ部で弾くことになってたから練習してたんだ」
OBがオーケストラ部に顔をのぞかせるのは珍しくない。けれど、王崎はさすがに来過ぎかもしれない、と都築は思う。噂で聞くに、大抵その時はこちらへ来ているようだし、今回のコンクールにもかなり関わっていたようなのも聞いている。大抵の人間はその後に呟くのだ。「それでも、あいつのヴァイオリンに勝てない」と。その気持ちは痛いほどわかる。
都築は肩を竦めて、王崎を見た。
「もうこんなところにいる場合じゃないでしょ? ……って、聞く相手じゃないのは知ってるけど、云っておくわ」
「はは、変に付き合い長いからバレちゃってるね。――ここ、落ち着くんだ」
優しい表情のその瞳は想像しているより深い。
楽しみ、という言葉は本当なのだろうが、その気持ちとあの瞳の奥の深淵が王崎のヴァイオリンの要素なのかもしれない、と高校の時から思っていた。
「今はすごく忙しいんでしょうけど、ま、息抜きも必要よね」
都築の言葉に、王崎が目を丸くする。それを見て、自分が失言したのかと内心あわてた。なにかフォローを、と考えるより先に王崎が口を開いた。
「その言葉、高校の時にも聞いた。相変わらずだ、都築さん」
「……そんなに変わらないわよ」
云い返しながらも、王崎の言葉に予想以上に混乱されている自分がいた。
その動揺に気付いていないふうに、王崎はにこり、と都築に笑いかける。
「そうかな。すごく綺麗になったよ」
「〜〜〜〜〜っ!」
高校の時よりも少し濃くなった化粧で、顔が赤くなるのは王崎に悟られていなければいい。本番ではないからナチュラルメイクではあるが、それでも。
都築は祈るように思った。
「あ、高校の時も綺麗だったけどね」
継いだ王崎の言葉に、都築はがっくりうなだれた。それで一気に染まった頬を隠す。きっと満面の笑顔で云っているだろうことも予想がつく。少し間を取って、ゆっくり顔を上げるが、王崎の目は見れない。
「お世辞でもありがたく受け取っておくわ」
都築の発言に王崎が眉を寄せる。
「お世辞じゃないよ。都築さん、本当に………」
「わかったから!」
云いかけた言葉を、都築が遮った。
「ごめんなさい。王崎くん、嘘つく人じゃないって知っているのに」
「俺こそごめん。ムキになっちゃった」
そして顔を見合わせて、笑った。そこで空気はほどけた。
それが高校の時からあった暗黙の、和解の証。
基本的には謝ることが素直に出来なかった都築のためのルール。王崎は自分に非がある場合、きちんと謝ってくれる。都築も謝るのだが、プライドが邪魔をして出来ない場合もあって、そんな時に用いられる。今回は互いに謝ったが、互いに習慣のように目を合わせてしまった。
「高校の時に、戻ったみたいだ」
王崎も高校の時のことを思い出したのだろうか。なんとなくうれしい。都築は頷いた。
「ずいぶん前のことのように思うけどね」
「そうかな?」
無邪気な王崎に、都築は頷いた。
こういうところが憎いと思う気持ちもあのコンクールの中で度々あった。それは今も変わらないのを思い知らされる。
「そうよ」
その時、会話を切るように、チャイムが鳴った。
鳴り終わるのを待って、なにか云いたそうな王崎を先んじる。
「ほら、オケ部行くんでしょ? 私はそろそろ大学に戻るわ」
王崎はまだ未練がある表情をしていたが、そこは深追いせずオーケストラ部に行くと決めたようだ。
「ああ……それじゃまた」
都築は心の中で安堵の息をつく。
「ええ、また」
そして二人は別れた。
校門のところまで来た都築はふと、振り返った。わかっていたが王崎の姿は見えない。
――あの日々が遠くない、なんて王崎くんらしいわ。
口の端に笑みをはく。どこか自嘲的な笑みなのは自覚していた。
――だけど、私は、あの日々も遠いけど、それ以上に王崎くんが遠いと思うの。
ちゃんとした理由がないけれど、そんなふうに思った。
そしてその気持ちを学院に置いて、都築は門を出た。
end
|