逢瀬の約束
鳴りやまない拍手に、日野は我に返った。
ずっと、もうずっと、無我夢中だったことに、その時気付いた。
他の演奏者たちが自分を見ていて、いつも無意識にしている客席に向けての挨拶を忘れていることに気付く。その挨拶の体勢に入る一瞬前、日野は観客を見て、感動で胸をいっぱいにしながら挨拶する。そして顔を上げた時に、吉羅を捕らえてしまった。いつものようによく感情がつかめない表情で、けれど吉羅は自分たちを、いや、自分を見つめていた。日野の自意識過剰でない証拠は、視界に吉羅を入れた時にはもう目が合っていたからだ。
吉羅が自分を買ってくれていて、市で行われる音楽祭のコンミスにと推してくれた。だけど、他の理事に日野では不安、と投げかけられての今日のコンサートだった。
自分でやれること、そして他の演奏者たちもベストを尽くしたコンサート。大きなミスもなく、練習以上に演奏出来た。
だから今、気にすべきは他の理事の評価。
けれど日野は、目が合った吉羅に心の中で問うていた。
――私たちの、ううん、私の音は、あなたに届いていましたか?
ヴァイオリンを下ろして、日野は大きく息をついた。
バレンタインの日に行われたコンサートが終わった翌週の土曜日。
コンサートの後は思ったよりも疲労していて、休日はかっちり、とではなく自由にヴァイオリンを弾く以外はほとんど何もしなかった。都築も云った通り、自分でもよくわかっていなかったが気も身体も張っていたのだろう。
――本当は、先週の土曜日は外に出たかったけど………。
コンサートの翌日だ。さすがに駄目だった。なにかきちんとした予定があれば動けたかもしれないが、予定はなかった。いや、本当は可能性にかけていたが、朝目が覚めた後、もう1回微睡んでしまって、目が覚めた時には家を出ようと思う時間を過ぎていてあきらめてしまったのだ。
――理事長に、会いたかったな………。
コンサートの演奏はあの場で褒めてくれたから、おそらく再び褒めるようなことはないだろう。日野は聞きたいことがある、だけど、それを口に出すことはためらわれた。けれど会いたかった。
この気持ちはなんだろう、と考える。
――あの瞳から、目が離せない………ずっと。
初めて会った時からずっと、理事長に惹きつけられている。それは日野も充分自覚していた。だけど、それを安直に恋と云っていいのかはわからない。
――なんだか……腹が立つんだもの。
あんな瞳をしているのに、言動は傲慢そのもの、その中に優しさがあるのはわかるけれど、それは日野にはとても分かりにくい。腹を立てて、どうしようもなく腹立たしいと思って、そして、最後に彼の優しさに気付くのだ。
だから思慕はあっても、恋になれば困難だ、とさすがにわかっている。そして日野の思慕が、恋に近いけどまだ違うということも。
――でも最近は、わかる……かな。
市の音楽祭のコンミスに選ばれて、アンサンブルを披露し、指揮者である都築に認めてもらえ、と云われた。戸惑いながらも前に進むしかなく、練習を重ねる。自分の耳だけでは信じられなくて、休みの日はこうして外で曲を奏でる。外の開放感溢れる空気と、直に伝わる他者の反応は、時に落ち込むけれど、結果的に奏でる糧になっている。コンクールなどで実感したことを改めて実践していた、その初めの休日の練習後。
吉羅は日野の前に現れた。
休みだからと食事に誘ってくれた。一度限りだと思ったが、吉羅は毎週日野の前に現れた。一度会ってから、また来るかも、という期待に満ちた気持ちで練習する場所を日野も変えなかったからかもしれないが、吉羅と毎週日野の練習が終わる頃に現れた。
音楽科の生徒ならともかく、普通の高校生にはとても手が出ないようなところで食事をご馳走してくれる。その時に、彼の様々な面を見た。
――私は、それに、触れていいのだろうか………。
ある意味無防備に晒されるその部分に触れたい気持ちよりも、無防備だからこそ無自覚で晒してしまっていて、そこに触れることは彼のプライドを傷つけてしまいそうな気持ちもあって、日野はそこには触れない。
そんな逢瀬を重ねているうちに、自分の中にどんどん広がっていく気持ちは止められなかった。
――でも、音楽祭が終わるまで。
コンサートの日にバレンタインのチョコレートとプラスアルファで贈り物はした。だけど気持ちを言葉で伝えられなかった。
気持ちの整理をコンサートの事もあって、きちんとつけられなかったのと、やはり音楽祭の事だけを考えることを優先した。与えられた役割は、自分にはしてはもったいないほどの待遇、そして、自分が魔法のヴァイオリンを使用していたことも忘れていたわけではない。まだまだ技量は足りないのだ。気持ちを別に持っていくわけにはいかない。
「はー」
考えると気が滅入ってくる。そんな自分の頬を叩いて、日野はヴァイオリンを構えた。もう一曲弾こうとした時。
「そんなため息では、曲も湿っぽくなる」
声に、日野は手を止めて、目を見開いて、声のするほうを見る。
「――っ! 理事、長?」
目の前に先ほどまで考えていた人物がいることが信じられなくて、日野は呆然と吉羅を見る。
「私はまだお化けになったつもりはないんだがな」
吉羅にしては忍耐強く日野の反応を待っての言葉だったが、いつもながらの挑発に日野もいつもながらの反応を返す。
「わかってます。理事長が実体を持ってることくらい」
「ならば普通に私を見てくれ」
返された言葉に、日野はどきりとした。
――虚像ではないのはわかってるつもり………だけど。
まだ知らない吉羅がいるのかもしれない。いや確実にいる。
その吉羅を日野が暴き出せ、とも云っているように聞こえて、日野は思わず赤くなった。
「どうした?」
それを隠すためにとっさに顔をうつむけたのに、吉羅が気付いて問いながら、顔を覗き込もうとする。覗き込まれたら、顔が赤いのが知られてしまうばかりか、更に赤くなってしまいそうだ。失礼を承知でそれを手で制する。
「なんでもないです………今日はお休みなんですか?」
一歩引きつつ、日野はゆっくり顔を上げた。
「ああ。先週は想像以上の重圧にさすがに疲れたろう。休養も大事だ」
日野は思わず吉羅を見つめた。信じられない言葉を聞いた。
――先週も、ここに来てくれたのだろうか?
コンサートが終わっても、ここで練習するのは変える気がなかった。もし吉羅に会えなくても、可能性は高いほうがいい。それほどに会いたかった。
だから吉羅の言葉に、先週、無理してでも来るべきだったとくちびるを噛んだ。
「しかし若いな。ちゃんと月曜日からきみの音が聞こえた」
音も認識されていたのだろうか。
日野はうれしさに笑みを止められない。それを隠すようにすました口調で云う。
「土曜はさすがに休みましたけど、日曜は練習始めてたんです」
あれを練習とは呼べないレベルなのは黙っておく。
吉羅は目を細めて、日野を見つめた。そして口の端に笑みをたたえる。この笑みを作るまでが、日野の目と心を奪う。
「それは失礼」
日野は心臓の鼓動が速まるのをこらえながら、首を横に振った。
ゆるやかな沈黙が流れる。おだやかな昼の陽射し。今日は特別寒くない、と沈黙に浸りながら日野は思う。
「ところできみはまだ、弾くのか?」
静かで怜悧な声が、沈黙を破って、日野は吉羅を見る。無表情な瞳が自分を見ていた。
感情がよく読めないので、日野は少し考える。頭の中を整理するためにもう一曲弾きたい。吉羅に遮られてしまったが、もともと弾くつもりだった曲。乱れた心をしずめるための曲だったが、今も吉羅に心を乱されているので弾きたいと思った。
「あと、一曲にするつもりでした」
吉羅の瞳が少し思案の色を帯びる。
――弾くのは、駄目だろうか………。
練習としては充分な量は弾いている。だけどこのまま用もないのに終えてしまうのは、あと1曲分の気持ちはふいになってしまう気がしてそれが嫌だった。
「その後の予定はないか」
視線は少し遠くを見つめたまま、吉羅が問う。
「はい」
「では最後の一曲を弾いたら、食事にしよう――いいね」
高圧的な物言いだが、最後の念押しには日野を気遣う様子が見えた。
――断れるわけ、ない。
吉羅を見上げながら、日野は思う。
ここで演奏を中断されるようなことがあれば話は別だが、吉羅に会えることを考えて、日野はここへ来ているのだ。
日野は素直に頷いた。吉羅はそれを見て一歩退いた。それに笑って、日野はヴァイオリンを構えた。
「コンサートが終わってしまったから、月曜日の報告がなくなってしまって、きみと会うのはコンサート以来になるな」
食事をしながら、吉羅がふと思い出したように云う。
「そうですね……私はちら、と姿は見ますけど、後ろ姿ばかりで、正面の理事長にお会いするのはコンサート振りな気がします」
コンサートはあの贈り物のことをどうしても思い出してしまう。赤くなってしまうのは負けな気がして、日野はなるべくそのことを考えないようにする。
「見かけたなら、声をかければいい」
「………え?」
一瞬、吉羅の言葉が信じられなかった。本当に幻聴かと思った。
「私はきみを見ていない。もっとも、音は聞いているが。――ならばきみが見かけたら声をかけてくれないと会えないままだ」
日野はぽかん、としてしまった。
吉羅の言葉はわかる、きちんと理解出来る。だが、それはまるで。
――私に会いたいって云ってるような………それは考え過ぎかなあ?
赤くなるのは懸命にこらえられても、うれしくて口元がゆるむのは止められない。
「でも、理事長。私が理事長を見る時は大抵移動中でして、しかもすごく速くて、追いかけられないんです」
実際、そうだった。
コンサートの後、吉羅の姿を見かけたのは、3回ほど。
初めて会った時みたいに、どこかへ移動している姿だったが、声をかけようか悩んでいる間に去っていったのが1回、次は思いきろうとしたが、あまりの早足に断念した1回、もうあきらめて姿を目に焼きつけた1回だった。
「そうか。原因は私にあるのか………」
思い当たる節があるのか、吉羅は唸った。
今は無表情ではなく、難しい表情をしていて、日野は見ていてうれしくなる。
――少しは、私のこと、考えてくれました?
この人の中に、少しでも日野がいればいい、と思う。日野の中には吉羅がもうあふれている。一方的なのは悔しい。
「そうだ、こうしよう」
声に、日野は食べずに吉羅を見続けたことに気付き、我に返ったように食事に意識を戻した。
「月曜日は比較的会議もないし、私は週末に放った書類に追われているから、なにかあるなら理事室に来なさい」
「なにかないと駄目なんですか?」
思わず口を出た問いに、吉羅が気まずそうな表情を一瞬見せ、それから普段の表情に戻る。
「音楽祭の準備があるだろう。ちょっとしたことでも出来るだけ協力しよう」
呆れた口調が優しくなる。日野はうれしさに胸がいっぱいになった。
「わかりました。毎週月曜日、理事長に報告にうかがいますね」
返した言葉に、吉羅が口の端を持ち上げる。笑ったようだ。
「コンサート前に戻ったみたいだな」
日野も頷いた。
うれしさで胸がいっぱいだったはずが、食事に意識を戻したら、とても足りなくて、ついおかわりをお願いしてしまった。吉羅は苦笑しながらもこころよく頼んでくれた。
月曜日まであと二日。
会える約束が出来ることが信じられなくて、日野はその日眠れなかった。
end
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