逢瀬は月曜日に・1
いつか、聞けるだろうか。
目の前の重厚な扉は、室内にいる人物の心の壁を思わせた。バレンタインのコンサートまでに、かなり壊した気がするが、この扉の前に立つと、もとに戻ったような気さえしてくる。
自分と吉羅の関係はなんだろう。
授業中のふとした瞬間に空を見るように、奏でる曲を最後まで弾き終えた刹那、帰り道、暮れ行く夕陽を見つめて、少しだけ音楽と離れる時間、日野は考える。
だけど答えは出ないし、出せないし、出したくなかった。
まだ、日野には大切な時期だ。それを自分から壊すわけにはいかない。
「あ………」
それよりも大事なことがあった。でもそれも答えは先ほど考えていたことと同様に、どう答えられてもショックを受けそうだから、聞けなかった。
あの日。
あのバレンタインの日。
――私の音はあなたの心にどう届いて、どんなふうに響いていくのか………。
今日もきっとその問いを口に出すことは出来ない――そう思いながら、日野はようやく扉を叩いた。
ノックの後に吉羅の「はい」という誰何の声がした。約束でいてくれるとはいえ、忙しいのはわかっているので、それだけでうれしい。この空間に吉羅がいるのだ、と思うだけで胸が高鳴るのは少し変かもしれないが、動く感情は仕方ない。
何度か深呼吸して、「日野です」と答えると「入りなさい」とまた声がした。
扉のノブを回す瞬間は、すごく緊張する。いつしか、緊張するようになっていた。今まではノブを開けた中に吉羅と都築がいて、
オーケストラの進行状況を話す。初めは、その進行を話すことで緊張していたのに、コンミスを認めるコンサートの直前くらいには吉羅に会うのに緊張した。
――それでも、会いたくて。
ここに来る時も休日に会う時もとても緊張していたけれど、それでもそばにいたかった。
今日、ここに来たのはその願いが叶ったことになるが、はたしてこの中に都築もいるのか、とふと考える。もしかしたら気をきかせて呼んでくれているかもしれない。都築も多忙だが、メールなどで連絡はとってくれる。だから距離感はあまり感じない。そういうのは知っているはずだが呼んでくれたなら、うれしくて残念だ。
――私のことを気遣って、呼んでくれてるんだろうけど、2人でいたい気もする………。
それはそれでとても緊張するので、ずいぶんわがままなことを思っている。
静かだが重い音を立ててドアが開く。いったん俯くようにして、足を踏み入れて、そして顔を上げると室内が目に入った。ざっと見回して、誰もいないことがわかった。いや、声の主はいる。彼しかいない。途端に背筋が伸びる。
――うわ、ホント、緊張してきた。
だがその気持ちを悟られるのは悔しいので、伸ばした背筋でまっすぐ前を見つめて、吉羅のところへ云った。
「こんにちは。忙しくていないかと、少しだけ思いました」
いつものように書類に目を落としていた吉羅は目を上げて、日野を見つめる。
「暇なわけではないし、急用もしばしば入る。その時はきちんと連絡を入れる」
答えに少し安堵して、そしてそういうわけではないのに、突っかかる云い方をした自分が少しもどかしかった。
「仕上がりは順調か?」
オーケストラを体験するのは初めてだが、仲間がいて、支えになる指揮の都築もいる。練習は慣れないことも多くて大変だと思うが、それでも周囲の空気がいいので、順調だ。日野は大きく頷いた。
「はい、理事長」
日野の予想では、嘘をついたつもりはないが、吉羅を満足させる答えだった。想像ではそっけなく、だけど満足そうに頷くのだろうと思っていたが、吉羅は口に手を当てて、なにか難しい表情をしている。すぐになにか云われるだろう、と待っていたが、吉羅は口を開かない。日野の鼓動は緊張に、一気に跳ね上がる。
――なにか、失礼なことを云ってしまったのだろうか?
けれど、表情には出さないように気をつける。このタチの悪い大人は、余程のことがないと本心を見せないから、気を許すと足下を掬われる。年の差があるとはいえ、そういうふうに手の上で転がされるのは悔しい。だがその時に見せる表情は子供っぽさが垣間見えて、日野は悔しいけど、吉羅のその部分を見れるのは嫌ではなかった。嫌でないけど、悔しさはかなりのものなので、日野は精一杯あらがうのだ。
焦る沈黙の中で、日野はここに来てからの吉羅とのやりとりを考えていたが、吉羅が黙るほどのことを云ったとは思えない。だがその沈黙に耐えかねて、日野は口を開いた。
「……あの、私、なにか変なこと云いましたか?」
問いに、吉羅は弾かれたように顔を上げる。そして時計を見て云う。
「ああ、すまない。私はずいぶんぼんやりしていたんだな」
答えに、日野は安堵する。ぼんやりしていたのならよかった。
「役職だけで呼ばれるのは、まるで自分でないみたいな錯覚を受ける、と考えていた」
継がれた吉羅の発言に、日野は目を丸くする。
「――え?」
確かに日野は理事長と呼んでいた。だがそれは今に始まったことではない。日野と吉羅が出会った時は、吉羅はもう理事長だった。その就任に関してのいろいろにも関わったが、結局吉羅は今も理事長だ。
――別の名称って、あとは………。
吉羅のつぶやきは、日野に対してのことだけでないだろうことはわかったが、今、この場にいるのは日野だ。だからこそなんとかしないと、と考える。
理事長と呼んでいるのは、初めて話をした印象でだ。今はそこまで固くなる必要がないのも知っている。わかっていても、その呼称を変えるのは、自分としてなにかを越えてしまいそうで怖かった。だが、吉羅の要望であるなら、変えてみてもいい。吉羅のフルネームは知っている。わからないから呼ばないわけではない。
「吉羅さん、て呼ぶと、なんだか星の名をさらうみたい」
日野が夢心地で呟いた。無自覚で言葉にしていた。それに吉羅は目を眇めたのを見て、日野は気付いた。申し訳なさそうに、吉羅をうかがうと予想に反して、笑っているように見えた。
「姉がかつて、そんなふうなことを云ってたな」
吉羅の言葉に日野はハッとしたような表情で、吉羅を見つめる。
まさか吉羅が自分からきらの姉をするとは思わなかった。思いつきなのに、彼女と同じことを云ってしまったことを少し悔やむ。だがその日野の思考を見透かしたように、悪戯っ子のような瞳で日野を覗き込んで云った。
「……なら、下の名で呼ぶか?」
挑発めいた言葉に、日野は真っ赤になる。
心を読まれた悔しさと、その言葉の内容に、思わずくちびるをきゅっと噛んだ。それすらこの男は興味深く見ているのだろう。
悔しいが完敗だ。
――あー、さっきの努力も無駄だわ………。
思うが、それは隠せたのでいいのかもしれない。それに、彼女の話を出せる距離も少しうれしい。
日野は悔しさを隠さずに、吉羅を見た。そして云う。
「……無理です」
「私の名前を知らないからか」
平淡な口調はどちらでも構わないという余裕が見える。それ以上に、日野が知らないわけがない、とも知っているような余裕もわかる。だが、ここで日野が黙れば、なにを云われるかわかったものではない。吉羅の仕掛けだと知っても、日野は懸命に首を横に振った。
「そっ――、そんなわけありません!」
日野が必死なのに対して、吉羅は憎らしいほど余裕たっぷりだ。澄ました表情で返す。
「知ってるなら、呼べばいい」
反撃して呼んでやろうか、と思う吉羅のファーストネームはまだ日野が呼ぶには羞恥が走る。想像して、恥ずかしさに顔が赤くなるのを少しでも悟られないように、日野は吉羅を睨みつけてくちびるを噛む。
「………」
「呼べないのは子供だからだ」
淡々と言葉を重ねる吉羅に、日野は呻くように言葉を返した。
「……すぐ、子供扱いして」
「私からすれば子供だ」
精一杯の抵抗も、あっさり返された。事実を突かれるのは、痛い。
ずるい。
確かに子供かもしれない。だけど、吉羅だって、初め見た印象よりもずっと幼い気がする。
――こういうふうにからかう時なんて、ホント、子供みたいっ。
これは大人の駆け引きじゃない。子供の云い争いだ。
そしてあっさり引っ掛かってしまう自分にも反省なのだが。
「じゃあ、大人の理事長は私の名前を知っていて、呼ぶことが出来るんですか」
まだ抵抗して返す言葉に、吉羅は微笑んだ。
「申し訳ないが、私は君の名を覚えていない」
嘘だ。そんなわけない。日野は確信があった。そしてそこでようやく反撃の糸口を見つける。心の中でにっと笑って、日野はきらをまっすぐ見つめて一言ずつ区切るように云う。
「日野、香穂子、です。吉羅理事長」
改めての自己紹介に、吉羅は眉を上げた。
「君は私に下の名前で呼んで欲しいのか?」
――むかつく。
だがカッとなったら負けなのがわかっているから、逆上することすら出来ない。
しかし、悔しいがこの男に自分が惹かれているのはわかっている。――そこでもう、負けなんだけど。
「理事長の好きなように呼んで下さい。私はこれから吉羅さんって、呼ばせてもらいますから」
日野は吉羅を見つめて云った。吉羅は頷いた。
「好きにしたまえ」
そっけない言葉に、日野はにっこりと吉羅に笑んだ。
「わかりました。でしたら、変な噂は避けたいので吉羅さんて、呼ぶのは二人きりの時にしますね、暁彦さん」
「――っ!」
かすかに、吉羅が息を飲んだ。
――勝った。
だがこれくらいが日野の精一杯の反撃だ。だからそれ以上追いつめずに引き下がる。ちらり、と視線を走らせた時計の時間的にもちょうどいい。
「もう、昼休みが終わるので失礼します」
「……ああ」
追いつめないけれど、さっき反撃を思いついた時に、考えていたことだけはどうしても云いたかった。扉のところまで歩いて、振り返って、日野は云った。
「あなたにもっと認めてもらえたら、ファーストネームで呼びます」
呼ばせてください、ではないのは、日野のプライドだ。
「好きにしたまえ」
声が震えているのは、日野の気のせいではないだろう。
「それでは失礼します」
一礼して、日野は理事室を出た。
部屋を出た瞬間、日野の頬は真っ赤になった。自分でもよくこらえていられたと思う。
理事室の前は嫌だったので、廊下を早足で歩く。その度に、切る風が火照った頬に心地いい。
理事室を曲がって、日野はふと気付いた。
「………結局、音楽祭の話、ほとんどしてないかも」
その事実に笑う。せっかく抱えていったヴァイオリンも、用がなかった。
「残念、」
とさしてそう思ってないふうにヴァイオリンに話しかけて、日野は教室へ歩き出す。
それでも吉羅と関われる時間は日野にとって貴重な時間だった。
重い扉が閉まって、しばらくしてから、吉羅は大きく息をついた。
「………これ以上認めようもない」
日野が出ていくと、吉羅は吐き捨てるように云った。
――暁彦さん、か。
からかった吉羅への反撃を反芻する。甘いムードでなく、反撃のためか、日野の照れもあったのだろう、ちょっと早口のファーストネーム呼びは、それでも吉羅を動揺させるには充分だった。
「まだ甘いな、私も」
悟られるわけにはいかないが、鼓動はかなり早かった。
独りごちて、吉羅は微笑んだ。鼓動はおさまりつつある。だが来週のことをふと考えて、また胸がざわめいた。
来週も楽しい月曜の昼休みになりそうだった。
end
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