シエスタ


 好天に恵まれ、練習室からこぼれる光も夏のまぶしさは持っていなくても、眠気を誘うほどだ。
 手を止めた香穂子は目をほそめて、外を見つめる。
「あーいい天気」
 ――こんな日は、きっと志水くん、寝てるわ………。
 今日は確か練習室での練習はなかったはずだ。
 練習室が使えなくても、次のセレクションが近いこともあって、さまざまな場所で音が漏れ聞こえてくる。それはもちろん参加者に限ったことはない。
 こんなふうに、巻き込まれる前も音にあふれていた、と香穂子はぼんやりと思う。
 ――あまり、気にしたことなかったけど。
 リリの云う通り、普通科と音楽科は距離があるのだ。距離というより、ほとんど音楽科に興味を持っていなかったのは周囲では香穂子が最たる人物であったが。コンクールに参加することになって、友人たちが結構音楽科の人たちに興味を持っていて、ある程度情報があるのを知った。香穂子がコンクールを通して、初めて知ることも、友人たちは割と知っていた。
 逆もある。
 音楽科に参加者らしい友人はいないが、香穂子のピアノ伴奏を引き受けてくれた彼女も普通科のかっこいい男子にはくわしくて、土浦などは参加する前から知っていた、というから驚きだ。「ピアノやってるとは思わなかったけど………」という彼女の言葉に香穂子も納得する。
 あとは音楽科の方へ来る時に、音楽科の男子たちが香穂子を呼び止めて、普通科の女子のことをいろいろ聞いてきたりする。可能な限りは答えるが、それを他の参加者に見つかると彼らは香穂子からシャットアウトされてしまう。
 ――馴れ合わないけど、互いには興味あるのかもね。
 香穂子の結論はそんな感じである。
 コンクールじゃなくて、もっと親しみやすいイベントを開いてみることをリリに今度提案してみるのもいいかもしれない。「それってどんなイベントだ!?」ってしつこく問われて、ツメの作業をさせられるかもしれないが。
 時計をふと見る。
 香穂子に残された時間はあと30分。
 陽の中に埋もれて眠る志水を思い返し、うらやましながら、香穂子はヴァイオリンを弾いた。

「やっぱり………」
 目的地に辿り着いた香穂子は、想像した通りの光景を見てつぶやくと、思わず笑みをもらし、ヴァイオリンケースを置いて、そのすぐそばに腰を下ろした。そして視線をかたわらに向けた。
 横になって腕を伸ばしたあたりに、志水が眠っている。
 眠る寸前までぼんやりと見ていたのだろう、ハードカバーの厚い本が転がっていた。
 ――こっちまで眠くなりそう。
 志水と仲良くなってから、こんなふうに香穂子は校舎裏で眠る志水のもとを、何度か訪れる。
 普段ぼんやりとしていて、なにを考えているかいまいちわからない彼は接点が少なく、苦手なわけではなかったが、あまり話すことがなかった。
 第1セレクションが終わった時、志水の方から香穂子の演奏を褒めてもらった。
 その時、言葉を選びつつ淡々と話す志水の声に熱を見つけた香穂子は、なにを考えているか、という点においてはある程度解決出来た。
 ――音楽ばかりなのである。
 こうやって、本片手に寝ていたりするけれど、練習にたいしての姿勢は、傍目から見ると普段の志水なのだが、気迫がまるで違い、声もかけられないほど真摯だった。
 奏でられる旋律はやはり1年で選ばれていることもあって、正確で丁寧だった。
 会うと話すのは音楽のことばかりなのだがそれでも楽しかったし、たまに聞く日常のことなどは志水の志水らしさを本人が無自覚に語っていて、面白かった。
 気がつくと、香穂子は志水を追っていた。

 仲良くなる前に、ここで寝ている志水を見つけた時は、風邪を引くとあわてて起こした。寝ぼけ眼で、けれど参加者として認知していた志水は「音楽が降ってくるのを待ってるうちに寝ちゃったみたいです」といつもよりもゆったりとした口調で云い、また寝始めた。もうあきらめて、けれど放っておくわけにもいかず起きるのまで待ってしまった香穂子に、志水は驚いたようだった。
「………音楽、私には降ってこなかったわ」
 風邪引くのが心配で、けれど何もしてない香穂子は気まずく肩をすくめて云った。すると志水は笑顔になり、
「次がありますよ」
 そうフォローしてくれた。セレクションで褒めてくれる前のことである。

 寝ている志水を見ていると、心がゆるりと波打つ。そうなったのはいつだったろうか?
 ――これが、音楽が降るってやつかなあ?
 思うが、いまいちよく感覚がつかめない。
 違っても、そばにいたい気持ちはあったので、それはわからぬまま今日も来てしまった。
 香穂子が来たのに気付かずに志水は気持ち良さそうに眠っている。
「今日はこれ読んでるんだ」
 ふふ、と志水の本をチェックして、持ってきた小さな肩かけを志水にかけてやり、自分も同じくらい厚さの本を取り出す。
 勉強することはたくさんある。練習もちっとも足りてないし、こうやって文献をひもとくのも、演奏するのに深みが増すのは実践済みだ。時間がいくらあっても足りない。争うわけではないけれど、志水を含めた参加者のほとんどが「勝つことでなく最高の演奏を」というように、香穂子も自分の中での最高を目指している。そのために思いつめ過ぎて、だめになりそうな時もある。
 でもこうやって眠る志水のかたわらにいると、気が抜けて、楽になる。かかるプレッシャーは変わらないけど、ちょっと息がつける、そんな感じで。
 夢の中でもきっと練習しているかもしれない、と寝顔を笑顔で見つめると、志水がうっすらと目を開けた。香穂子はあわてた。
 ――なんて云い訳したらいいんだろう、って、云い訳しなくてもいいのか!? 
 明らかに動揺する香穂子に気付かずに、薄く開いた志水の瞳が香穂子を捕らえて、ゆっくりと目が細くなる。
「あ…せんぱい、だ………こんにちは………」
 無防備な笑みに香穂子の心は騒ぐ。
「こ、こんにちは」
 動揺しながらも返した挨拶に、志水の目はさらに細くなる。その志水の髪に葉っぱを見つけた。
「葉っぱついてるよ、」
 云って髪に触れる。毛先がカールした髪はやわらかい陽射しを受けて、きらきら反射している。触れる瞬間、心臓が止まりそうになった香穂子だったが、触れたら離せなくなって、志水の目に日陰を作るように前髪に手を置いてしまった。髪質が細いのだろう、手応えが少なくけれどやわらかい弾力で香穂子の手に馴染んでくる。
 志水は目を細めたまま、その仕種を見つめていた。
 自分の行動に気付いた香穂子は、離れたがらない手をどうにも出来ずに、眠らない志水につぶやくように云った。
「もうちょっと警戒しなさいよ。こんなに触らせちゃって」
 言葉に、ちょっと目を見開いた志水はまた笑みをたたえる。
「…せんぱいは警戒してないです。――それとも警戒する必要があるんですか?」
 ――そんなこと云うと、襲うわよ。
 思ったが行動出来ずに、言葉にもせずにそのまま葉っぱを落として、髪から手を離した。
 すると志水は笑みながら、目を閉じ、本当に寝てしまった。
 その様子に香穂子は笑い、膝の上に載せていた持ってきた本を開くと目を落としたのであった。

 ――旋律が、聞こえる………。
 ぼんやりと香穂子は思いながら、それを追う。
 けれど聴いたことがない音だった。コンクール参加者とも違う、参加し始めて聴いたたくさんの音楽科の人の演奏とも違う――誰の、音だろう?
 あの音を奏でたい。
 強く思う。理想というものさえ見えてこなかった香穂子が初めて感じた衝動。
 ――弾けるかな? あんなふうに。
 考えながら、夢中で音を追う。
 その音が余韻を残しながら消えていき………目を開けると、あれだけの陽の光が暮れる色に染まっていた。
「――えっっ!?」
 香穂子は驚いた。驚きながら目に入ってきた景色も、まっすぐでなく校舎が横である。自分が横になっていたことにさらに驚きながら起き上がる。額に手を当てながら、懸命に記憶をたどる。
「あ、起きました? もうすぐ下校時刻だから起こそうと思ったんで、ちょうどよかったです」
 声がして、そちらを向くと、志水が微笑んでいた。膝の上に本をいて座っていて、きちんと起きている。
 ちょっと前の記憶の志水は眠っていた。と、いうことは………。
「私、寝ちゃってた?」
「はい」
「うわー不覚………」
 つぶやくと、肩からなにかがするりと落ちる。見ると、自分が志水にかけた肩かけともう1枚かかっていた。手に取って、それから志水を見た。香穂子をにこにこと見つめる志水は上着を着ていない。
「ごめんっ、上着かけてくれたの? 志水くんのほうが風邪引いちゃうよ」
 ぱたぱたと服についた葉っぱなどをはらって取りのぞいて、香穂子は志水に上着を返す。
「大丈夫ですよ。ほら、女の人は冷やすと大変って、僕、聞いたことがあります」
「うーん、そう云われるけどね………ありがとう」
 上着を着ながら、志水は首を振る。
「いいえ。本当は寝始めたくらいにかけたかったんですが、僕が起きたらせんぱい寝てて、ちょっと冷えちゃったかもしれないですね」
 自分で身体を探ってみる。今日は気温も高かったから大丈夫だろう。
「でも平気。私、結構丈夫に出来てるから」
 志水が黙って笑んだ。香穂子も気恥ずかしいながらも笑みを返す。肩かけをたたむ。もうすぐ下校時刻なのだろう、と香穂子も軽く帰り支度を始める。
「でも気持ちよかった。なんか頭がすっきりした気がする」
「それはよかったです」
 そして不意に思い出して、時計を見る。まだほんの少し時間がありそうだ。
 ヴァイオリンを取り出して、目を覚ます直前に聞いた音をたどってみる。
 何フレーズか弾くと、まだまだ理想の音には足りてないのがわかる。けれど、それがなんであるかほんの少しわかった気がした。大きく息をついた香穂子に、ぱちぱちと拍手の音が聴こえた。志水である。
「また、音が綺麗になってました。せんぱい、本当にすごいですね」
 あの音が弾きたくて、一瞬志水のことを忘れた。思わず両手を合わせて、頭を下げる。
「ごめんっ、なんか忘れる前に弾いちゃわないとって思って――志水くん、音が聴こえた。ホントなんだね、音楽が降ってくるって」
 あわててヴァイオリンをしまう。
「ゆっくりでも大丈夫ですよ。ヴァイオリンがあわてちゃいますから。僕も先輩の音が聴けて、ちょっと得しちゃったし」
 志水の目は嘘をついてなかった。心からの言葉に、香穂子も胸の奥があたたかくなる。
「……うれしい」
 そして丁寧にヴァイオリンをしまって、かばんを持ち上げて、志水を見た。
「途中まで、一緒に歩いていい?」
 誘うのはいつも勇気がいる。香穂子の言葉に志水は頷いて、ほころぶような笑顔を見せた。
 志水の笑みに、香穂子はまたあの旋律が遠くで聴こえたのを感じた。
 end





20040421up 第2直前か第3セレクションはじめあたりだと。