空中散歩
まるでどこかの絵画みたいだ、と志水は立ち尽くしたままで、思った。
屋上のベンチに座って目を閉じている日野の姿があまりにもきれいで、志水は声をかけられない。
ここで日野と待ち合わせをした。待たせたわけではないが、待ってくれているのはうれしい。耳にヘッドフォンをつけて、なにかを聴いている日野はうっとりと目を閉じて、頬杖をついている。土曜の午後は午前授業のためか、日野と自分しかいなかった。
声をかけなければ、と思うのだけど、今、枠の中に入るのはためらわれた。
なにより、今、自分が見ていたかった。
ただ、その風景は日野が目を開けた瞬間に終わる。目を開けた日野はすぐに志水を見つけて破顔した。絵画ではないけれど、志水の心は激しく波打つ。
「あ、桂くん」
速まる鼓動をおさえつつ、志水は日野に歩み寄った。
「遅くなってすみません、せんぱい」
「ううん、いいの。今ね、桂くんが貸してくれたのをダビングしたのを聴いてたの。すごくいいわ」
自分が好きな音楽を気に入ってくれたというのはうれしい。なにより待っていてもらった間の表情でわかる。
「良かった………」
なにかを共有出来ることがこんなにもうれしいとは思わなかった。たとえば同じ音楽、共に過ごす時間。
「もっといろいろ聴かなきゃ、ダメよね」
ぼやく日野の隣に志水は座って、持っていた袋を差し出す。
「今日も持ってきてみました」
今聴いているやつも志水がよく聴くもので、今回もお気に入りのを何枚か選んでみた。
「ほんとう? ありがとう。いつも借りちゃって、私悪い上級生だわ。んーでもウチにあるの、邦楽しかないしなあ」
喜びの表情で、志水に礼を云いつつ受け取った日野がうなる。
「聴いてみたいです」
彼女の興味のあるものなら知りたかった。そのジャンルにはうといかも、と思っていたので知る機会が得られたのはいいかもしれない。
志水の言葉に、日野は目を輝かす。
「そう? じゃ、今度持ってくるね」
志水は頷いた。
ベンチになにげなく置いた手が、日野のMDウォークマンに触れた。
かしん、とひっかくようにはじいてしまい、志水はベンチから滑り落ちてしまわないように手を差し出して、もとの場所に戻す。
「あ、すみません」
驚いて手を引いた志水に日野は首を振って、静かに笑む。
「一緒に聴く?」
一瞬、鼓動が止まるような誘いに、志水は魅入られたように頷いた。
はい、と差し出された片側のイヤフォンを受け取り、日野の側のほうの耳につける。日野も慣れた様子で、持っているのをつけた。
志水の装着が完了するのをみて、日野がスイッチを押す。
流れてきたのは、聞き慣れた曲。聞き慣れた演奏。耳に馴染んでくるのに、今日はなぜか違った。
ちらり、と日野を見つめる。さきほどのように目を閉じて聴いている。
その姿を見た瞬間、また違って聴こえた。どうしてだろう、と考え始める前に答えが出ているような気がした。
――せんぱい、が、いるから?
日野と知り合ってからも聴いているはずなのに、彼女が隣にいるだけで、こんなふうにも違うように聴こえるのか、と志水はその事実に驚く。
そうしている間に曲が次のに変わる。それもまた違ったので、志水は確信した。
そしてこっそり微笑む。
手を伸ばせば触れられるほどそばにいる緊張は、5曲目にやってきた。それまでは音が違うことが楽しくて、興味深くてしかたなかった。
ふたりはCD1枚分終わるまで、その距離を保ちつつ、聴き切った。
「……不思議ね」
ふふ、と笑み、ヘッドフォンをはずしながら日野が云う。
「借りてから何回かしか聴いてないけど、志水くんと聴いてるとなんか違う気がしたの」
信じられなくて、志水は日野を凝視する。
「え?………」
「変な意味じゃなくて、………うーん、心が踊るっていうかそんな感じで、すごく楽しかった。どれもね、よかったんだけど、心がふわふわ踊る感じで聴いてたわ」
志水の反応をどう取ったのか、あわてたように日野は云った。それで自分が少し誤解させるような行動を取ったのだと知り、志水は首を振った。
「………僕も、――僕も、そう思いました。うまく云えないけど、地に足がついてないような感じでした。こんなふうにこの曲が聴こえたのは初めてです」
日野は笑った。
「屋上っていうのもよかったのかもね、あ、私、まだ返してなかったわ。はい、どうもありがとう」
礼を云って、日野は袋を差し出した。志水は両手でそれを受け取る。
「いいえ」
「………そういえば、お礼代わりにお昼を作ってきたんだけど、これ食べてからもう1ラウンド行く?」
もうひとつの包みを遠慮がちに出した日野の問いに志水は破顔して頷いた。
2人の観賞会は午後いっぱい続いたのであった。
end
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