夕焼けの彼方に
暮れていく夕陽が目に馴染んできた。
こんなふうに学校であまりこの時間を迎えることがなかった香穂子にとっては、変な気がして仕方なかった。初めの頃は「補習でもないのになんでこんな時間まで………」とためいきをついてしまったくらいだ。
校門から校舎までの道のりが長いこの学校は自然を重んじているのもあり、目にあざやかながらも優しくきれいな景色が飛び込んでくる。
――巻き込まなければ、こんなふうにきれい、と思うこともなかったのかも。
見つめる時間が長ければ、視界に入る景色について思うことも多くなる。気付けて良かったと今は思う。機会がなければ、卒業まで感じることはなかっただろう。まあ、だけど、と香穂子は小さくため息をついた。
――まだ、音楽科の人の視線にはなれそうもないけど。
ただ不思議なことに参加者はほとんどが香穂子を好意的に見てくれている。月森に関してはいまいちわからないけれど、なんとなくあの態度は香穂子だから、というわけではなさそうだ。
参加者はそれぞれに個性があって、超然としている。それに関しては冬海が多少違うのだけど、他の人は音楽科の中でも一線を画しているような印象がある。それをわかっているのだろう、音楽科の生徒はそういうふうに接している。その分、冬海と自分に少し周囲がきつい気もしなくはない。ペースを合わせて話してみると、いい子なので、負けないで欲しいと思う。
自然と同じように目に入ってきたことを香穂子は考えながら、ヴァイオリンをしまう。そろそろ下校時刻がやってくる。今日は早めに片付けて、図書室で文献を見てみようと思っていた。借りれればいいけれど、そこまで見られるかは自信なかった。
廊下にそそぐ柔らかなオレンジの光に、香穂子は目を細める。差別されていると思わないけれど、音楽科は普通科と造りが違う気がする。それは生徒たちが醸し出す空気かもしれないし、本当に造りが特別だからかもしれない。
――防音設備の分だけじゃないと思うけれど。
コンクールが終わってしまえば、関係なくなる。それまでに馴染むことはないと思う。
図書室に入り、空いている席に荷物を置いて、香穂子はヴァイオリンに関しての本がある棚を探した。音楽、というくくりの本だけにしても他の学校よりは確実に数があって、その付近に辿り着いただけで、香穂子はめまいがした。
――どうやって、探そう………。
わずかな時間では無理と悟ったが、せめて帰るまでにはヴァイオリンのところまではたどり着きたい。目の前に広がる棚のうちのきっとどれか、とあまりに投げやりな見当をつけて、香穂子は一番の棚から見始めた。
――ここじゃ、ないか………。
ふう、と小さくため息をついて、背後の棚を見ようとくるり、と身体を回転させる。その時、とん、となにかに当たった。そこにはなにもなかったはずだと目を上げると、目線が香穂子より少し高いくらいの人物が立っていた。それが誰であるか、数瞬惑い、名前を思い出す。
ぶつかったために2人の距離が近いことにあわてて身を引き、香穂子は小さい声で云った。
「志水くん、ごめんなさい」
日野に視線を当てているはずなのに、違うところを見ている気がして、日野は落ち着かない。志水も静かに云った。
「平気です。僕も気付きませんでした。確か……日野せんぱい、でしたよね?」
日野が頷く。すると志水はそっと笑みを浮かべた。
「よかった……すみません、僕、人の名前と顔を覚えるのが苦手で、でもせんぱいはぼんやりと名前が出てきて……でも間違ったら悪いって思って……」
前髪に軽く指をからませて、志水は云う。
「覚えててもらって、よかったわ」
日野は笑んだ。本心である。初めて自己紹介した時、覚えてもらえるかとても不安だったのを思い出す。
「――せんぱいも本を借りにきたんですか?」
問いに香穂子は自分の指名を思い出しため息をついた。しかし我に返って、あわてて口を開く。
「うん。志水くんはよくここ利用するの? もうすごいよね………私、あとちょっとでヴァイオリン関係のところにたどり着けるのは不安よ………」
「こっちです」
どこかゆったりした感じとは裏腹に素早く志水が移動する。一瞬、きょとんとした香穂子はあわてて志水のあとを追う。迷いもなく、裏側の棚のひとつをさして、云った。
「ここからその隣くらいまでです」
見ると、そういうタイトルのものが並んでいた。香穂子はホッと安堵する。
「ありがとう、すごく助かったわ。志水くん、確かチェロよね……他の楽器の本も読んだりするの?」
問うたが、志水も確か本を借りに来たのではないか、と思い出す。下校まではあと少し。
「って、ごめんね。時間取らせちゃって。少し棚を見て、また明日来てみるわ」
「………すこしだけ読みます。他の楽器も勉強した方がいいと思ったし、そこにヒントもあるような気がして」
香穂子の言葉に、志水は動かずにぽつりと云った。
「ヒント?」
志水をわずらわせたくないと云うことを忘れて、香穂子は問い返した。
「たとえば……チェロだけでわからないことも全体を見るとわかる時もあるし、興味もありますし」
淡々と云うが、それはすごいことだと香穂子は感じた。
その時、下校のアナウンスが響いた。
「あっ、ごめん。志水くん、本を借りに来たんでしょ? まだ借りるの間に合うと思うから、急ごう?」
「僕、本を借り終わって帰るところなんです」
「そっか。でも、ありがとう」
胸を撫で下ろし、香穂子は改めて礼を云った。
「いいえ」
そして簡単な挨拶をして、2人はそれぞれの荷物を取りに行った。
図書室を出ようとする香穂子に、志水が目に入った。
「また会っちゃった」
いたずらっ子のように云うと、志水はふ、と笑みをにじませる。
退室して、廊下を並んで歩きながら、香穂子は志水の持つチェロケースに目をやった。チョロとはどういうものかわかっているけれど、間近で見ると本当に大きいのだと認識を新たにする。
「重くない?」
ふと疑問を口にする。志水は少し驚いたような視線を、香穂子に向けて、それから首を振った。
「いいえ」
迷いがない言葉に香穂子が驚いた。ヴァイオリンでさえ、かなりの重量があるのだ。それよりも大きいチェロが重いはずはない。
「すごいわ………」
感嘆して呟くと、志水は薄く笑って云った。
「チェロを弾くのに、もっと大きければいいんですけど………」
その言葉に香穂子が首を傾げる。
「そうかな? 重くないって志水くんがいうなら身体の大きさは関係ないかも。バランスがあるから、きっと今のチェロは志水くんの身体に合ってるんだろうし、大きければうまいってわけじゃないでしょ?」
云い終えて、素人がそんな無責任なことを云ってもいいのか、とあわてたけれど、練習室から漏れ聞いた志水のチェロは身体の大きさを意識しなくても充分香穂子の胸を打った。チェロを弾くために大きい身体が必要かもしれない。けれど今でもいいのだとも思う。
そんな香穂子を志水は優しい瞳で見た。そして廊下に視線を戻し、口を開く。
「そうですね……ないものをほしがって、あれこれ考えるより、今自分にあるものでやらなくてはならないんですから。――日野せんぱい、ありがとうございました」
深々と頭を下げられて、香穂子がパニックに陥る。
それに気にした様子もなく、「僕ちょっと用事があるんで」と云い、もう一度別れの挨拶をすると別の方向に歩き出した。
静まらない気持ちをおさえながら、香穂子は動けずに志水の背中を見送った。
『今、自分にあるもので………』
香穂子の言葉がきっかけで得た志水の言葉を胸に刻み込む。
――あー、もう、ホントすごいわ………。
やっと落ち着いた香穂子は大きくため息をついて、陽も落ちそうな中を歩き出した。
そして初めは混乱しつつもいやがっていたヴァイオリンの重さが苦になってないことに気付いて、独り苦笑した。
end
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