たそがれ
陽が、暮れようとしていた。
普段よりも少し支度に手間取って、いつも下校アナウンス頃には門をくぐっていたのに、今日はやっと校舎を出たところだった。急いでいるわけではなかったけれど、いつもより遅いこともあって自然早足になる。
その志水の横を、風が通り抜けた。
至近距離で抜けていく風に、志水は視線を向けて、目を見開いた。志水にしては早く言葉が出た。
「香穂せんぱいっ!」
声に、風は数メートル先でぴたりと止まり、駆けるよりは遅いが早足で戻ってきた。志水もさきほどより早く歩いたので、互いに数歩ほどで、向かい合う形になる。
日野が志水を認めたのだろう、はあ、と大きく息をつく。両手を膝に乗せて、姿勢を崩した。
「ああっ、良かった−」
息は安堵のものだとその言葉で気付いた。いつも一緒になる時間より遅いので、その表情が見えない。
「どうしたんですか?」
志水の問いに、日野は顔を上げて笑んだ。影になってしまって見えないけれど、そんな気がした。
「桂くんと帰る約束をしてたでしょ? 曲弾いてたら、夢中になっちゃって、見回りの人が練習室ノックするまで気付かなかったの。だから待たせたくないから走ってたんだけど、すぐ横を通ったのに気付かないなんて、私もぼけてるわね」
云いながら、髪をかきあげる。懸命に走っていたから暑いのだろう、手でぱたぱたとあおぎながら、歩みを進めた。
うれしさと同時に志水は申し訳ない気持ちになる。
約束は覚えていた。それでもあんなふうに駆けたりはしなかった。
「すみません、僕、歩いてました」
頭を下げた志水に、日野はくすり、と微笑んで、首を振った。
「そう? いつもよりちょっと速かった気がするわ。普段と同じ速さなら私気付いていたと思うもの。それにいいの。桂くんはゆっくり来て。桂くんの走る姿って想像出来ないし」
云いながら、さらに笑みを深める。
「僕だって、走ります」
ちょっとむっとして志水は云い返す。
「わかってるわよ。体育の時間もあるしね」
「……………」
日野の言葉に志水はもう云い返せなかった。走るといえば、日野の指摘通り体育の時間くらいのものだった。
やっと校門のところまで来た。
暮れ行く夕陽はもう沈む寸前なのだろう、空はかなり暗くなっていた。
「桂くんを会ったあたりがたそがれね」
日野が呟く。志水は顔を上げて、表情は見えないけれど、日野を見る。
「たそがれ…ですか」
聞いたことがある。この時間帯を指すのだとうっすらと考える。
「うん。たそがれ時ってよく云うでしょ? たそがれを漢字で誰そ彼って書く時もあるの」
「誰そ彼?」
「夕陽が沈むあたり、目も暗闇に慣れないから、そばにいても誰だかわからないってそういうことらしいの。歩調で気付かなかったとはいえ、桂くんがわからなかったなんて不覚だわ」
確かにまだ日野の表情が見えない。どんな表情をしているのか、とても気になった。
見ることは叶わず、志水はそれでも日野のほうを見つめながら、口を開いた。
「気にしなくていいです。僕も、先輩が通った時、誰だかまるでわからなかったですから」
そんなふうに急いでくれたことはうれしかった。
「じゃあ、まさにたそがれマジックね」
きっといたずらっ子のように目を輝かせて云ったに違いない。笑みがこぼれる口調に志水も笑む。そうだ、と云おうとしてあることを思い出す。
「あ…、でも音で聴けばわかるかもしれません」
それなら自信がある。
志水の言葉に、一瞬間をおいてから日野がからからと笑った。
「あははーそっか。でももっと簡単にわかるかも」
「?」
そんな方法があるなら、知りたい。
すっとなにかが志水の顔を影を作った。影は志水の頬に触れた、日野の手だった。
「こうやって触れれば、目をつむっててもわかるわ」
触られたことに驚いたけれど、不快ではなかった。
「そうですね」
すると日野はぱっと手を離して、それを自分自身の頬に当てた。
「あっ、でも誰彼構わず触るのはマズいわね」
日野の言葉に志水も思案する。
「そっか………誰だかわかって触るのはいいけど、わからずに触るのはちょっと怖いですね」
「うーん、難しいわあ」
「……先輩、――あっ」
両手を頬に当ててうつむいて歩く日野は危ないと志水は注意をうながそうとした。が、遅かった。
とっさに出した腕は日野を押し戻すようにしか動かなかった。その志水の腕の5センチほど後ろ、日野の歩いた方向には電柱があった。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん――ごめんね。あっ、桂くんの腕っ、大丈夫っ?」
日野は志水の腕を取ってさすった。志水は首を振る。
「はい、平気です。乱暴に押し退けてすみません。もっと早く気付けばよかったですね」
きゅっと志水の腕を優しく握りしめて、日野は首を振った。
「私が悪いの。桂くんが押してくれなかったら、明日鼻ぺちゃで恥ずかしくて学校に行けなかったわ」
「それは困ります」
風邪や病気ならともかく、その理由で会えないのは淋しすぎる。
日野の手を自分の腕から離して、手と手をからませた。
「別れるところまで、こうしてていいですか?」
心配だった。またぶつかりそうになった時に自分がかばいきれるかの自信もない。
「……………うん」
おとなしい日野の返事に、志水は自分がなにをしたのか気付いた。顔から火が出るくらい、熱を持ったけれど、手を離すことは出来なかった。
手を繋いだまま、暮れて真っ暗になった道を歩く。街灯がぽつぽつとあったけれど、熱が引かなくて、なかなか日野のほうを向けなかった。
「――あ、月」
日野の言葉に、志水は空を見上げた。
空には大きな月がひとつと星がたくさん瞬いている。ちょっと明るくなったような気がするのは、月のせいかもしれない。
そしてやっと日野のほうを見つめた。
志水と同じように月を見上げていた日野は、視線に気付いたのか志水のほうを見た。
その頬が赤い気がするのは、気のせい、ではないことを志水は祈った。そして微笑む。
「やっと、せんぱいの顔が見れました」
end
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