リトル・ロマンス
電話の呼び出し音に香穂子は顔を上げた。
――桂くん、かな?
直感で思うが、今日会うのに、電話がかかってくるのはもしかしたら遅れるかもしれないのかな、と香穂子は考えて、少し淋しくなる。
もうすぐ会えるけど、1秒でも早く会いたい。
そう考えつつ、ちらり、と香穂子は自分の身体に目を落とす。
支度はもう終わっていて、今すぐにでも出られるようになっている。おかしくないと今日、何度目になるかわからない確認をしつつ、ほんのわずかな服のしわを直しながら、香穂子は電話を取る。
「はい、日野です」
『おはようございます、香穂先輩』
受話器の向こうから、待っていた声が聴こえてくる。
声だけでもう、会いたくなるから不思議だ。
「おはよう、桂くん」
―――だけど。
確かに志水の声である。なのに、ほんの少し、なにかが引っかかった。思わずしわを伸ばす手を止め、首をかしげる。
『せんぱい、ごめんなさい。むかえに行くって云ったんですけど――すみませんが、むかえに来てくれませんか?』
やっぱり、おかしい……、頭の中ではそう云ってるけれど確証がつかめずに、香穂子は頷いた。
「OK。で、桂くん、今どこにいるの?」
『駅です。あの……ホームまで来てくれますか?』
志水の言葉に、香穂子は2度ほど首をかしげる。
香穂子の家は駅からそんなに距離はない。むかえに来てくれないことに腹を立てているわけではないが、少し不思議に思う。そして、ホームまで、と云うのはどういうことなのか。
「いいけど、どこか行くの? そこまで切符買っておいた方がいい?」
志水が行動のつかめない人だとわかっていても、今日はとても変な気がする。
それでも、甘やかすわけでなく、お願いされるなら聞こうと香穂子は思って答えた。
『入場券で大丈夫です』
答えにまたも首を傾げながらも、香穂子は頷いた。
「? わかったわ。すぐに行くから待ってて」
『はい、ありがとうございます』
きっと笑顔で云ってくれたのだろう、と香穂子はその表情を想像して、自然笑みを浮かべながら電話を切って、バッグをつかむと家を出た。
「桂、…くん?」
ぽかんとした様子の香穂子に、ちょっと困り顔を浮かべながらも、志水はにこっと微笑んだ。
「はい、お久しぶりです、香穂先輩」
ホームのベンチに志水は座っていた。横にチェロが置いてある。歩いてくる香穂子に、志水は気付いて手を振った。そこでようやく距離と遠近が狂うような錯角を香穂子は覚えた。目の前まで来て、香穂子はようやく志水が普通の大きさでないことに気付いた。
「久しぶりね……って、見ない間に桂くん、ずいぶんちっちゃくなったわね」
まだどこか呆然としたように香穂子が云う。
うーんと、と呟きながら、前髪をくるんと引っ張る。その仕種は間違いなく志水のものだ、と香穂子は思う。そうしてても目の前の人物を志水と認識するのは難しい。――会話は、志水がマイペースなせいか何故か成立してしまっているけれど。
「電車乗って、降りる前に目が覚めたら、この姿になってたんです」
「ふーん、ってええっ! なんかすっかり落ち着いちゃってたから、もうずっとかと思ってた」
確かによく見れば、服がダボついてる感じがする。
――何歳の、桂くん、なのかな?
普段の志水を見慣れているせいもあるが、小さい志水はなんとなく香穂子の心を落ち着かせなくさせている。それもどきどきするような感じで。
驚いた香穂子に志水は笑みを浮かべる。
「Tシャツだったから、あまり服が大きいことに気付かないかもしれませんけど、えーと………」
云いながら、座っているベンチから立ち上がる。そして香穂子をまっすぐに見つめた。
今の志水は香穂子の胸あたりくらいまでしか身長がない。
見上げるように香穂子を見つめて、志水は云った。
「多分6年前くらいの目線です」
――6年前!?
志水があまりに普段の清水なので、驚くことは憚られたが、内心はぐるぐると思考がまわりすぎて、それでも処理はちっとも追いついていないほどの混乱ぶりである。
「そっか………」
呟いて考える。
いろいろ考えて、ふと、今日という日を思い返した。
それを思い出したらもうたまらなくなって、香穂子は志水の手を握りしめた。
「とりあえず、ウチ行きましょう。ウチならまだ桂くんの弟ってことにしとけば大丈夫だし、――実は今全然頭働かないの。冷たいものでも飲んで、今日どうするか決めましょう」
香穂子の言葉にうれしさに彼女の手を握り返して、志水は微笑んで頷いた。
「……はい」
自分でもさすがにどうしようかと少し悩んでいた志水の心を溶かす言葉と動作に、志水は改めて香穂子への想いを深めるのだった。
「さて、と」
飲み物を志水にも出して、自分もひとくち飲むと、香穂子は云った。
香穂子の家には誰もいなかった。
「チェロは大事だけど、いまの僕にはあっていないんですよね。ちょっと淋しいな………」
確かに、普段なら持っている姿もあまり気にならないチェロは志水を圧迫するかのような大きさである。それでも、持てるから、と志水はそのチェロを引きずるように香穂子の家まで持っていった。そのチェロは今、香穂子の部屋にある。出かけるとするなら、多分置いていくだろう。
香穂子は飲み物を飲む志水を見る。
2週間強振りに志水に会う。夏休みに入って、集中レッスンを受けた志水は、それを終えると実家へ帰っていった。夏休み前のこの日に帰ってきてほしい、と頼んだのは香穂子だ。ちなみに今日の予定は香穂子任せで、内容もある程度志水に伝えてある。
その予定は志水のその姿で振り出しに戻ったのだが、志水はとりたててあわてた様子もない。そんなところも好きだと感じて、香穂子は意を決した。
「チェロはここにおいて、今日は予定通りに出かけましょう」
にこり、と香穂子は笑う。けれどいつも、香穂子の云うことに大抵は笑って頷く志水が少し怪訝そうな表情をしている。
「……どうしたの?」
志水は困ったような笑みを浮かべる。
「僕、香穂せんぱいに会えて、すごくうれしいです。会えない間、せんぱいを想って、チェロを弾いてました。せんぱいに届くように、って――すごく会いたかったけど、僕、少し縮んじゃって、それでも一緒にいてくれるってうれしい。でも………―――ううん、と云いたいことがわかんなくなっちゃった………ごめんなさい、せんぱい、」
からん、と志水が持っている飲み物のグラスの中の氷が音を立てた。
志水は少し驚いたように顔を上げる。
両手で大切に持っていたグラスの外側を、今は志水より少し大きい香穂子の手が包み込んでいる。
「ホントはね、」
グラスを見つめながら、静かに香穂子は口を開く。
「すごく、驚いた。桂くんに会って。―――でもね、前髪を触るくせとか、言葉とかいつもの桂くんで、そう思ったら、会えたことがすごくうれしくなったの。だって、私も桂くんに会いたかった―――」
香穂子の頬にすっとなにかが触れる。
見ると、志水が身体を伸ばして、頬に自分の頬とくちびるを寄せていた。
目が合うと邪気のない笑顔で志水は云った。
「手が空いてなかったから――………」
香穂子は息をつくように、ふふ、と笑った。それでも志水の手は解放せずに、香穂子は続ける。
「もっとパニックになってたりしたら、ここにいるとか考えてた。でも、桂くんも多分いろいろ思っていることはあるんだろうけど、なんか今の状況を受け止めてる気がしたから、なら一緒に歩きたいなって、そう思ったの」
志水は満たされたようなやわらいだ表情を浮かべた。
「せんぱいがそう思ってくれているなら、僕はうれしいです」
そのおだやかな表情に香穂子は心臓をつかまれて、顔が赤くなる。そのままにこっと笑い返して、志水の手を解放すると、グラスを置いた志水の右手を握りしめた。
「そうと決まったら、行きましょう」
「はい」
志水も香穂子の手を握りしめて、そのまま立ち上がった。
外はさきほども歩いていたけど、雲ひとつないほどの快晴だった。
玄関の鍵を閉めた香穂子は、門を出ると自然な仕種で、志水の方に手を伸ばす。
その手をごく自然に握りしめて、志水が云った。
「今日はコンサート行って、それから公園や駅前通りを見たり……ですよね?」
電話で聞いたメニューを志水は、その時にうきうきした口調の香穂子を思い出しながら、確認する。
「ええ。間にどこかでお昼食べましょう。本当は作りたかったんだけど……」
尻すぼみして消えた言葉の先を志水は知っている。だからこそ笑顔で首を振った。
「気持ちだけもらっておきます」
確かに手作りでなにかもらうことは過去に数度あるからうれしい。けれど、作れなくなった理由も志水を満たすから、構わない。そこに男女の差がなくてもいいのだ。
「少し急ぎましょう」
きゅっとつかむ手に力を込めて云う香穂子に、志水は頷きながら、胸の奥が少しちりっとした。
――どうしてかな?
空いてる手で胸に触れる。痛みが、なんであるかわからない。戻るヒントかもしれない、と少しだけ考えていたが、触れた瞬間、
痛みは手の中をすり抜けるように、さっと消えた。
コンサート会場は香穂子の家から学園へ行く途中の道を曲がった先にある。
「早くまた登校したいね」
香穂子はそっと呟く。コンクールが始まって、次第に仲良くなるにつれ、2人でこの道を歩くことが多くなった。目を伏せるように路面に香穂子は目を落とす。あっという間だった日々は、今は記憶に遠くけれど、志水とは今も静かに続いている。
学校は普通に好きでも嫌いでもなかったけれど、嫌な勉強とかより、今は友達と過ごしたり、志水と登下校することなどがとても待ち遠しい。
――早く、会いたかった。
だからわがままで、ギリギリまでいる予定を繰り上げさせてしまった。志水が今の姿なのは、そうした香穂子を責めているような気がして、罪悪感が胸を占める。けれど原因はどうあれ志水に一番重くのしかかる現実なのだから、志水に合わせて香穂子は気にしないようにしていた。ただ小さい志水と歩くことは特に気に止めていない。
「………はい」
返事と口調に香穂子は自分の失言を知る。いたたまれなくなって、足が止まった。
「ごめんなさい。私、早く志水くんに会いたかったの。会えない間電話やメールしてたけど、買い物や出かけたりでこの道を通る時、思い出すのは志水くんばかりで………高校生活より短いけど、志水くんと歩いてた記憶しか蘇ってこなくて、会えないのが淋しいなって思ってばかりで………授業は嫌だけど、早く新学期にならないかなって思っていたから………」
だから、というがそれは香穂子の口の中に消えてしまう。
云えば云うほど自分のエゴしか見えてこなかった。
「僕の方こそ、ごめんなさい」
志水の言葉に、泣きそうだった顔を香穂子は上げる。
「――え?」
「確かにいつになったらこの姿に戻るんだろうって考えちゃったから、せんぱいを心配させてしまいました。でも、僕も会いたかったです。まだ先輩を実家の方に連れて帰ってないのに、歩く道、見える風景が音とせんぱいであふれそうになって………、せんぱいを連れて帰りたいほどでした。なったのも突然だから、どうやって戻るかとかちっともわからないけど―――それはあとに回して、今日はせんぱいを過ごす1日を楽しみたいと思います」
にこっと笑った志水の表情に迷いは見えない。
そう決めたのなら志水に従う、と香穂子も頷いて、泣きそうな顔で笑った。
「ホントは、後にまわしちゃいけないんだけどね」
歳上らしく云う言葉に力はまるでない。それを感じて、志水も笑った。
「そうですね」
繋いだ手をさらにかたく握りしめて、2人はコンサート会場へ向かった。
「はー、いい演奏だったわ」
ため息をつく香穂子に志水は頷いた。
「そうですね。音が身体に染み込んでいくようでした」
志水もどこか夢心地に同意して、言葉を継いだ。
「「ああいう音、出したい………」」
志水の声だけではない声も被さっていて、志水が香穂子を見つめると、ぺろり、と香穂子が舌を出してウィンクした。
「出せるよ! でも、今日聴いたような音じゃなくて、桂くんには桂くんなりの音があって、私はそれを楽しみにする」
香穂子の言葉に、志水は微笑んだ。
「ありがとうございます」
「さて、」云って、香穂子は身体を伸ばす。コンサートを聴くのはコンクールに参加することにより、興味深く楽しい時間と思えるようになった。ただ、そうなる前と一緒で、長時間座っていると身体がばきばきするのは嫌だった。
「軽くごはんも食べちゃったし、まだ外明るいし、ちょっと散歩する?」
伸ばした身体を左右に曲げながら、香穂子は志水を覗き込む。慣れていたが、志水もまだ今の身体の感覚をつかめていないので、いつもよりは負担がかかっている気がしたから香穂子の提案に乗ることにした。残暑も厳しいが、冷房のかかった室内へ行くよりは自然の温度に触れていたい。
「はい、公園に行きたいです。アイスクリームが食べたいかもしれません」
志水の言葉に香穂子は笑う。
「そうしましょう。アイスは是非ごちそうするわ」
云いながら、香穂子は手を差し出す。実家に戻る前の日常が返ってきた気がする、と志水はうれしくなりながらその手を握りしめた。
公園は平日ということもあったが、休日よりは多くないが、平日の夕方訪れるくらいには人がいた。すれ違う人のほとんどがアイスを持っていて、それがおかしくて思わず顔を見合わせて笑った。
「私たちもあの人たちの仲間入りよ」
ゆっくりと、それでも目指すはアイス屋だ。
普段よりは人が多く、ちょっとした列に並んで2人はおとなしく待つ。
列はすぐに最前に行き、「お待たせしましたー、」と明るい声と共にアイスが渡される。
「ありがとうございます」
志水が丁寧に礼を云って2つとも受け取ると、店員は一瞬きょとんとしてから笑みを浮かべて、香穂子を見た。
「素敵な弟さんですね」
その言葉に2人は顔を見合わせる。それから香穂子は志水の腕に自分のそれをからませ、云った。
「恋人同士なんですよ、私たち」
ウィンクすると志水と足並み揃えてくるりときびすを返した。
「――駄目ですよ」
なかばスキップしているように歩く香穂子を、志水はたしなめる。
「どうして? 本当のことだよ」
言葉を意外と思った香穂子は本当に不思議そうに云う。
「元に戻ったら香穂せんぱい、年下を手玉に取る悪いお姉さんって思われてしまうから」
答えに香穂子は笑った。
「あー確かに、そうかも。『この間の子はどうなの?』って聞かれたら困っちゃうわね。だって、私が手玉に取りたいのは桂くんだけだもの。まあどっちも桂くんなんだけどね」
暑い陽射しの中にかすかに風が吹いた。志水はそれを追う。
「せんぱいは優しいから、僕を手玉になんて取りません。でもせんぱいならいいです」
邪気のない瞳は見た目が若くなって、さらに純度が増しているような気がするのは、香穂子の気のせいだろうか?
「何云ってるのよ、って私が悪いのか。駄目よ、悪い女に騙されちゃ」
速くなる動悸を隠そうと必死に云う。それを志水はさらりと返す。
「大丈夫です。僕は先輩にしか、惹かれませんから」
「〜〜〜〜〜〜もう!」
香穂子の顔はもう真っ赤で、恥ずかしさでそのまましゃがみ込みそうになるが、悔しかったので、志水の方に腕をまわして、背中のあたりに顔を埋める。
普段なら出来ない、と考える。志水の髪と香穂子の鼻先がニアミスした時、志水の髪からおそらくシャンプーだろう、やわらかい良い香りがした。香穂子はまた、どきりとする。
「―――せんぱい、アイス溶けちゃいます」
冷静な声に、香穂子ははっと身体を引いた。ふと目を落とすと志水の顔が心無しか赤いような気がする。
「アイス持っていなかったら、先輩をぎゅってしたのに………」
呟きに、香穂子は優しく笑ったが、胸の奥は壊れそうなほど鼓動が速かった。
ベンチに座って、アイスを食べる。
会ってから、精神的にも時間的にも落ち着けなかったもので、そこでようやく離れていた互いの夏休みの話をする。
こんなに離れていたのは会ってから初めてで、その間に出来た隙間を埋めるように、互いが互いの話を熱心に聞き入る。埋められはしないことをわかっているけど、相手のいない日常は知りたい。
そして気がつくと、陽が翳っていた。
「………行きましょう」
香穂子は立ち上がり、志水に手を差しのべる。
それをつかみながら、空も緑もさざめく人もすべてまぶしさに目を細めてしまうあざやかな夕陽の色に染まっていくのを見つめた。そして何故か、普段は感じないどこか物悲しい気持ちになる。
繋いだ手から半歩先を香穂子が歩いている。
――どこへ行くのだろう?
夕闇に落ち始めた公園を離れて、香穂子の家の方にでも志水の家の方でもなく、香穂子は歩いていく。
行き先を聞いていなかった。そのまま家に戻るだろうと思っていたから。
けれど不安はない。―――香穂子が、一緒だ。
どこに連れていかれるのだろう? 香穂子が連れていく場所ならどこへだって行ってみたい。
きゅっとやわらかく強く香穂子の手を改めて握りしめた。
確かな弾力と自分とは違うやわらかさは、香穂子という人間をあらわしているような気がした。
公園を出て10分ほど歩いたその先は、学校の森の広場に近い場所。
「森の広場の裏の方なの」
きょとん、と見回す志水に香穂子は云った。
「もうちょっと行くと、ほら―――、」
「――――――――!」
香穂子が指した指先を、志水は見られなかった。
まぶしい夕陽が、志水の視界のすべてになった。
それは一瞬のことで、少し目が慣れてくると、夕陽と景色が見えてくる。
心までも奪いそうなほどの圧倒感。志水の実家にもそういう場所はあるけれど、香穂子と見る景色はまた違うものになる。
「夏休み中に見つけたの。天気のいい日に夕方独りで来る度に、桂くんと見たいってずっと思ってた。今日いい天気で本当に良かった。どうせ見るなら今日がいいもの」
どこか誇らしげな香穂子に、志水は優しく笑んだ。香穂子も笑みを返して、志水をまっすぐに見つめた。
「誕生日、おめでとう、桂くん」
志水は香穂子を抱きしめる。今は体格の差があるけれど、気持ちがあればいいのかもしれない。そう思えた。
「ありがとうございます、香穂せんぱい」
香穂子も志水を包み込むように抱きしめる。
その志水の身体がふっと抜けた。香穂子は抱く力に力を込めて、志水がくず折れるのをなんとか防ぐ。
「どうしたの?」
志水の顔を覗き込む。その顔色は夕陽に染まってはっきりとわからない香穂子はザワザワと嫌な予感がかすめる。
「すみません………眠いんじゃ…なくて………なんか…力が、抜け…て………」
今度ははっきり、志水は意識を失った。
香穂子はあわてて、志水の心臓に手を触れる。
とくとく、と波打つ鼓動が手に返ってきて、香穂子はほっと息をついた。
バックから携帯を取り出し、そして香穂子は我に返る。
――救急車を呼んで、――それから?
急を要するかもしれない。それを香穂子で判断するのは無理だ。けれど、今の志水はいつもの志水ではない。この状況をどう説明するのか。
香穂子は志水の口元に耳を当てる。コンクールで鍛えられた耳は志水の息を拾う。
寝ているのかもしれないし、違うかもしれない。
とりあえず、と香穂子は意を決して、志水を起き上がらせると志水を背負った。体格差があるからかろうじて大丈夫だった。
それから家に帰り着くまでは無我夢中で覚えていない。
香穂子の部屋まで担いでいけずにリビングのソファに志水を寝かすと、タオルケットを持ってきてかける。
そこでやっと息をついて、ソファのそばに座り込んだ。
志水を覗き込んで、様子をきちんと見て、電話をしようと思って、振り返って、志水を見た。
「? ――あれ?」
なにかが違う気がした。
そっと志水の額に触れる。熱はない。呼吸も落ち着いている。
それだけで大丈夫と思うのはいけないかも、と考えて、香穂子は違和感を探るように志水を見つめた。
出会った頃より幼くなった志水の顔をこうしてまじまじと見つめるのは初めてかもしれない。
――幼くなった?
確かに今日1日を一緒に過ごした志水は幼かった。―――――でも、今は?
そこで違和感の正体に気付いて、香穂子は頭を抱える。
――これは願望?
考えて、けれどソファに寝かせた時の明確な記憶もないから、顔でも洗って少し間を置こう、と香穂子は立ち上がる。
「………?」
その香穂子の手が引っ張られて、香穂子はそちらに目を転じた。そこに香穂子の手首をつかむ手と、香穂子を見つめる瞳。
「桂、くん………大丈夫なの?」
志水の手を気遣い、ゆっくり向きを変えて膝をついた香穂子は志水を覗き込んだ。
ぼんやりと天井を見上げて、何度か訪れたことのある香穂子の家と認識して、そしてこれまでの状況を思い返すように目を何度か瞬いて、呟くように云った。
「ええと、僕………あ、夕陽を見て、それから―――」
手首の拘束がほどかれて、香穂子はその手を追って握りしめた。
「どこか痛かったり、気持ち悪くはない?」
問いに香穂子を見つめる。まだぼうっとしていて見ている香穂子はハラハラしてしまう。
「ちょっと身体が痛いですけど………気持ち悪くないです」
答えに香穂子は大きく安堵の息をつく。
「そう、良かった………」
「もしかして、先輩、僕をここまで運んでくれたんですか?」
志水の言葉に、香穂子はようやくいたずら心を起こして、ぺろりと舌を出した。
「お姫さま抱っこっていうわけにはいかなかったけど、」
答えに、力の抜けた笑みを浮かべた志水は、両腕を伸ばして、香穂子の身体を抱きしめる。
「ありがとうございます、せんぱい」
変な格好で抱きついたので、志水はずるり、とソファから落ちる。優しく受け止めていた香穂子もそれに気付いて慌てる。
「え、うわっ!」
どすん、と大きな音がして、さすがに志水も体勢を変えたけれど、うまく行かずに香穂子の上に落ちてしまう。
「………すみません、」
謝って、それでも香穂子の上から退かずに香穂子を抱き直す。
「こら―――って、あれ?」
しかたないという感じで抱きしめられながら、香穂子は違和感の正体にようやく気付いた。腕を解放させて、志水と距離を取ると、志水をまっすぐに見る。両手を志水の両頬に触れて、見つめるとうん、と頷いた。
「桂くん、元に戻ってる?」
あ、と志水も自分の頬に触れる香穂子の手をつかんで、大きさを確かめる。先ほどの感じと違う。ゆっくり立ち上がると、香穂子も立ち上がったので肩に手を置いて、目線を確かめる。
「戻った、みたいです」
香穂子は目をうるませて、志水に飛び込んだ。
「良かった………!」
それだけ心配していたのだろう、それを感じた志水もうれしさに香穂子を抱きしめる。
しばらくそうしていた2人はどちらからともなく身を離すと顔を見合わせて、微笑み合った。
「ホントに大丈夫?」
首を傾げて問う香穂子に、志水は何度云ったかわからない答えを返した。
「大丈夫です」
何度も大丈夫と云ったのに、それでも香穂子はまだ心配そうである。
甘い2人の時間はその後長くは続かず、香穂子の姉の帰宅から始まって、わいわいと志水は夕食までごちそうになった。
「やっぱり送る」
さすがの志水もため息をつく。
確かにまだ身体が軋むように痛い。けれど明日念のため病院へ行くけれど、いまは普通に歩いたり食べたりは出来る。チェロを持ってもふらついたりはしない。そんな戻った状態で香穂子に送られるわけにはいかない。
「せんぱい、」
門のところで意を決したらしい香穂子を志水は引き寄せて、耳元で囁いた。
「もし、せんぱいが僕を送るなら、家じゃなくて別のところに連れ込んじゃいますよ?」
その言葉に耳まで真っ赤にしたのが街灯の下でもよくわかった。
それでもいいけど、と風に消えるくらいの小さな声で香穂子は呟いて、それから志水を見る。
「本当に大丈夫なんだね。ごめん。気をつけてね………帰ったら電話だけはして?」
お願い、と云った香穂子は本当に頼りなさげで、先ほど云った戯れ言を実行してしまいそうになる。
「はい」
志水は頷いて、門を出た。
名残惜しそうな香穂子に、おやすみなさい、と云って、歩いていく。
不思議で、それでも特別な誕生日だった、と1日の出来事を反芻しながら、志水の1日は終わった。
角を曲がるまで志水を見送って玄関に入った香穂子は、あることを思い出す。
「ぎゃっ!」
悲鳴ともつかない微妙なにぶい声を上げて、駆け足で自室へ戻って、そこにあるものを見つめて、大きくため息をついた。
――誕生日プレゼント、渡しそびれた………。
がっくり膝をついて、手近のクッションを抱きしめて、ぽかぽか叩く。ふと思い直して、それを抱きしめて、1日を振り返って目を閉じる。本当にいろいろありすぎて思い出すのも時間がかかったけれど、大切な時間だった。
――大変だったけれど、また次に会う時に渡せばいい。
それがどんなに幸せなことか、よくわかった気がした。
その時、電話のベルが鳴って、香穂子は立ち上がった。
end
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