Feel You
それでも会いたいと願ってしまう。
見て触れて、まなざしを向けられて、あなたを感じたい。
――この気持ちをなんて云ったらいいだろう?
志水はそれが急に知りたくなって考えた。
『桂くん?』
問いかける携帯の向こうの声に、志水は我に返って謝った。
「あっ、すみません……」
すると笑い声が聞こえた。優しくやわらかい音。怒っていない、と気付いて、志水はうれしくなる。
『いいのよ、なにか考え事? 考えるなら、電話、切ろうか?』
日野は優しい。
音楽という思考にはまってしまうとどうにもならなくなることをよく知っていて、そんなふうに気遣ってくれる。けれど、今日は少し違う。このつながりを断ちたくはなかった。
「いいえ、先輩と……こういうふうに電話してるのって、おかしいなあって考えてて、うーんと」
うまく言葉が出てこなくて、志水はまた考え込む。
『私とこうしてるのって、おかしいの?』
しばしの沈黙で、電話の向こうの日野が云う。志水は見えていないだろうが、首を横に振った。
「おかしいじゃなくて、不思議、なのかな………。すごく離れてるところにいるのに、香穂先輩の声が、僕の耳に聞こえて…いつもはもっと距離が近くて電話してるから、今、こんなに離れても香穂先輩の声が聞けるなんて、すごく幸せだ、と思ったんです……」
それでもやはり、電波越しの感覚は少し淋しいと思ってしまうけれど、ただ離れているだけよりは淋しくない。
『………ありがとう。私も、桂くんの声が聞けて、すごくうれしい』
少しの沈黙の後、日野が云った。きっと照れているのだろうな、とその表情まで思い浮かべて、志水はくすりと笑んだ。
「香穂先輩がそう思ってくれて、僕もうれしいです」
『早く、桂くんに会いたいな』
日野の言葉が志水の胸に刺さる。
「す―――」
『あ、でもね、ちゃんとおうちでもゆっくりしてもらいたいな――っても思っているのよ、本当よ』
謝ろうと思った志水の言葉を遮るように、日野が云う。
「はい………でも、やっぱりすみません。もうちょっと早く帰れればよかったんですけど………」
志水の誕生日は夏休みの終盤にある。
祝いたい、と日野に云われたのだが、今年の夏休みはほとんどを実家で過ごすことになっていて、日野が住む町に帰るのは志水の誕生日の翌日だった。予定は日野とこういう関係になる前に決めてしまったので、変更することが難しかった。
――せっかく先輩が僕の誕生日を祝ってくれたのに………。
そう思うと、自分の中であまり意味を感じない誕生日が淋しい一日になるような気がするから不思議だ。
『ううん、桂くんがそう思ってくれるだけでうれしい』
「本当に香穂先輩に会いたい、です」
誕生日だって待てない――叶うなら、今すぐにでも。
いつもならそばにいて、顔を見て話をしているそれがなくなって、淋しかった。声は聞けるし、日野は自分を想ってくれてるのはわかるけど、それだけでは物足りなかった。音楽以外のことで考えるのは日野のことがやはり多くて、音も声も顔も思い出せる限り思い出しても、たまにする電話で声を聞いても、足りなかった。
『うん。じゃあ、約束通り、誕生日にちょっとだけ私に電話してね。そして帰ってきたら、私に会う時間を作って。それだけは、お願いね』
「はい、必ず」
夏休み終盤の誕生日を、家族がかわいそうがってか盛大に祝ってくれる。
今年も例外ではなかった。
下宿生活を始めて離れて暮らしているからか、例年になく盛大だったような気がした。
それでも朝からというわけではなく、ちょっと豪華な朝食を食べた後、志水はいつも通りに練習をして、そして昼になる頃に日野に電話をかけた。日野と約束した時間はこのくらいだった。
『――桂くん?』
ワンコールですぐに出た日野は、うれしそうに呼びかける。
「はい」
この瞬間が朝から待ち遠しかった志水も幸せな気持ちで応える。
『16歳、おめでとう! ちょ、ちょっと私の声聞こえなくなるけど、そのまま電話切らないでね。いい? 絶対よ』
「はい、絶対に切りません」
『ありがと! ―――………』
お礼の言葉の後、ぱたぱたとおそらく日野がどこかへ小走りで駆けて行く音、それからかたん、となにか音がした。
「……………っ!」
何の音かと考える間もなく、別の音が志水の耳を支配した。
ヴァイオリンが奏でるメロディ。
誰が弾いているのかなんて、すぐにわかった。
――香穂先輩の音……で、ハッピーバースディ………。
耳から流れてくるメロディはまぎれもなく日野の音、そして誕生日を祝う曲。
志水は思わずぎゅっと携帯を持つ手に力を込め、無意識に胸に手を当てた。
淀みなく奏でられる旋律はまるで普段の日野の生音を聞いているみたいに、志水の心を支配した。
――なんて、すごいんだろう………。
ポピュラーな選曲のはずなのに、きちんと日野の音色になっている。誰にも揺り動かせない個性になって完成されているのが、携帯越しでもわかった。
長いようで短い時間が終わり、かたん、と音を立てて、日野が戻ってくる。足音が今度は近づいてくる。
『桂くん?』
「素敵な誕生日プレゼント、ありがとうございます」
志水の言葉に、日野は当惑気味だった。
『ありがとう………でも、今日はこれくらいしかあげられないけど、ちゃんと別のものも用意してるから、それはこっちに帰ってきてからのお楽しみね』
離れているから、とこの曲を弾いてくれたことが、他のプレゼントがあったとしてもうれしい。他にも用意してくれたのならなおさら、自分のことを考えてくれたみたいでうれしい。
「そうなんですか………それも楽しみにしてます………でも香穂先輩、僕、今聞かせてもらった曲、もう一度、近くにいる時に聞きたいです………」
携帯越しでも充分に伝わるその音色が、間近で聞いてどんなふうに聞こえるのか、志水はとても興味があった。日野の音にはもともと深い関心がある。
『いいわよ、お安い御用』
「ありがとうございます。そういえば先輩、今練習室でしょう? 練習の邪魔しちゃってすみません」
ふと思い出す。音の響き方がなんとなくそうだと思った。
『ああ、わかっちゃった? そうなの。どこからの音がよく聞こえるかなあって考えたらここだった』
「せっかくですから、練習もしてください」
『そうね、そうするわ。あさって、会えるの楽しみにしてる』
名残惜しいけれど、練習もしてもらいたい。
「はい、またあさって」
待ち合わせは学校だった。
校内に大きな公園もあるし、屋上の見晴しもいいし、練習室もある――音を聞くには最適だと志水が指定した。
「すっかり、私のヴァイオリンがメインなのね」
待ち合わせて、軽い挨拶を交わした後、日野はちょっと照れくさそうに微笑んだ。その肩にはヴァイオリンケース、それを持っていない方の手にはバッグを持っていた。
「……楽しみです」
久しぶりに会う日野の顔を見つめて、志水が云った。
その言葉に、日野は面喰らうように頬を赤らめた。その顔を志水からそらして、日野が云う。
「今日は天気がいいから、公園のほうで弾いていいかしら?」
「はい」
本当は音を独り占めしたかった。けれど日野の音は空の下がよく似合っている。異存はなかった。
夏休み終盤だが、昼近い時間だが人はあまりいなかった。いつも2人が語らうベンチに荷物を置いて、日野はヴァイオリンを出す。
「あらためて、誕生日おめでとう、桂くん」
まだ頬を赤らめたまま、それでも志水をまっすぐに見つめる日野の顔はもうヴァイオリニストのものだ。
「ありがとうございます」
その日野にペこり、と頭を下げると、それが合図のように、日野はヴァイオリンを構えた。
そして流れる旋律。
さすがに待ち望んでいた生音に、志水の胸はあふれそうだった。
――ほんとうに………。
この人はすごい。
話しても、時間を共に過ごしても、触れられる距離にいても、それでもこの音の根源がどこにあるかわからない。
いや、わかる瞬間はあるのだ。だが、それをつかもうとすると、するり、と擦り抜けられてしまう。うっすらとつかんだものは言葉に出来ずに、イメージだけ、志水の胸にある。
ハッピーバースディのメロディは、誕生日に聞いた時よりもさらに澄んで深くなった気がする。
――生まれる瞬間っていうのは、こんなふうに深いものなのだ………。
チェロを奏でるこの手が、身体が生まれ出た瞬間は、やはり特別なのだ、と日野のメロディは志水に教えてくれる。
日野が弾き終わった後、しばらくぼうっとしてしまった。
生まれるの意味を、旋律の残像と共に考えていた。
「………ん、……桂くん?」
日野の声で我に返った。視界を広げると、日野が志水を立ったまま覗き込んでいた。
「あ……すみません………すごく、すごく素敵でした………前に聞いた時より、音が、もっときれいになってました」
まだどこか夢の中にいるような気持ちで志水が云う。
「気に入ってくれたなら、よかった。桂くんをお祝いしたくて、練習したんだから」
志水の言葉に安堵したように微笑んで、日野が云った。それに志水は少し驚く。
「じゃあ、僕だけの曲? ……ですか?」
すとん、と志水の横に腰掛けて、日野は恥ずかしそうに頷いた。
「うん。桂くんだけの曲。多分ね、これから先、誰かのために弾くことになっても、桂くんをこの曲からもう消すことは出来ない」
――言葉が、胸を貫いて、刺さる。
ただそれはなんて甘い束縛なのだろう、と志水は思う。
とっさに、ベンチに置かれた日野の手に自分のそれを乗せて、日野の耳元で囁くように云った。
「消さないで。香穂先輩が誰かに弾くことがあっても――この曲に込められた僕のかけらは消させない」
本当なら、この曲ごと自分のものにしてしまいたかった。
けれどこれほどポピュラーな曲を封印することは出来ないだろう。
ならせめて、日野が云ってくれた志水を曲から消さない――自分を想いながら、誰かのために弾くことは多少不謹慎かもしれないが、それは許してほしい。
志水の声は興奮のためかかすれてて、けれど強かった。
聞いた日野は弾かれたように志水を見て、瞳を揺らした。
「けい、くん………」
日野の瞳の中に、自分がいる。
日野香穂子という愛しい存在をいろんなところで確認する。
――それでも、まだ、足りない。
触れている手を包み込むようにしながら、志水は云った。
「ああ、やっぱりこうして触れていると、香穂先輩だって実感します。………先輩、もう少し触れても、いいですか?」
日野は志水の言葉にくすっと笑って、頷いた。
「私も、16歳になった桂くんに触れたかったの。先にどうぞ」
そして目をつむった日野に志水はゆっくりと手を伸ばした。
今までにない最高の誕生日だった。
end
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