8月、ひとつ、季節が過ぎてゆく


「夏休みが終わる少し前には帰って来ますから、26日は少しでもいいから、僕と会ってください」
 そう云われたのは夏休みが始まった少し後のことだった。
 夏休み、特に予定は入れていなかった。夏休みの課題を片付けること、ヴァイオリンの練習、それからそのヴァイオリンを続けるために、どこかで短期のバイトをするか、はぼんやりと考えていたくらいだ。始まっていても実行しているのがヴァイオリンの練習だけなのは、明日に帰省する志水に会いたいのと音を合わせたかったからだ。
 長い休みにはいれば、志水は実家へ帰ってしまう――その話を聞いた時は、コンクールを通じて仲良くなり始めたころで、自分より年下なのに親元を離れてえらい、なんて思っていたが、特別に親密な仲になれば離れるのが淋しい。だけど、やはり始めにその話を聞いた時に思ったように、長い休みの時しか帰らない志水だからこの時くらいは志水を家族の元に返すのが正しいと思って、笑って見送ることにした。
 見送る時に、笑顔の日野に向かって、志水はいつになく真剣なまなざしで26日の予約をしたのだ。その瞳の強さに引き込まれ、しばし言葉を失いその目に見とれていた日野だったが、すぐに我に返ると、大きく頷いて云った。
「もちろん。………どんな時でも、桂くんに会える約束があるっていいわね」
「僕も、そう思います」
 志水も日野に笑顔を向けた。
 そうしてしばし別れを惜しんだ後、志水は帰省していった。

 夏休みは息つく間もなかった。
 ぼんやりと考えていた予定を現実にしたからだ。だが思ったよりも生活はハードで、しかも練習を怠ることは月森が厳しい言葉であまり許してくれない。なんでも自分がいない間に気にかけて欲しい、と志水に頼まれたそうで、たまに学校で行き会って音を聞くと厳しくも図星な指摘をされる。ある意味志水の人選は正しかった。
 だが日野が本当に無理になると、そこは月森もゆるめてくれる。たまにしか会わないのに、いやだからなのか、日野の音で体調まで悟られるというのはなんとなく気恥ずかしい。思えば志水もそうだった。
 音楽科の人は音楽になにもかも捧げていて、だから音でなにもかもわかってしまうのか、と登校日にコンクールの時に日野の伴奏を勤めてくれた森にこぼすと、笑われた。
「あの2人は特殊じゃない。対照的だけど、捧げ方の半端なさは一緒だもの。私はせいぜい気持ちの動きくらい。でももう日野ちゃんだってそのくらいわかるよね?」
 云われると確かにそうかもしれない。
 感情が表に出る演奏をする人はやはりその時の気分がわかってしまう。
「そうかもしれないけど、ちょっと疲れてる、くらいわかられるとね」
 日野がため息混じりに云うのに、森がよしよし、と頭を撫でてくれる。その意図が日野にはわかる。
「だけど日野ちゃんが決めたことだから助けてはあげない。愚痴はいつでも待ってるから」
「サンキュ」
 コンクールで得たものは重いものもあるけれど、大きい財産になっていることを実感した。
 そんなふうにあわただしく充実しながらも志水との連絡は密だった。忙しさが半端でないからこそ、志水の顔をフラッシュバックする瞬間は藁をもつかむ気持ちで、つい携帯に手を伸ばしてしまう。さすがに迷惑な時間はメールだけにするし、電話にする時も大抵メールで都合を聞いてからだ。声が聞きたくてたまらなくても、「声が聞いてもいい?」とメールを送ればホッとする。そのメールから時間差はあるけれど、志水は必ず電話をくれる。そんなメールは志水からも来るのがうれしい。たまらない気持ちになってすぐに折り返す。
 会いたくなるけど、そうやって繋がっている実感は常にあるから、あまり淋しがらないですんだ。
 そして、志水が帰ってくる日が来た。
 こちらに戻ってくるのは25日だと云われたが、会う約束はしていない。
「きっとすごく先輩に会いたくなっていると思うけど……誕生日の楽しみのひとつにしておきたいんです」
 そう云われてしまったら、顔だけでも見たい、と押しかけることも出来ない。
 戻って来たというメールを受け取っても、日野はお預け状態だ。
 ――早く、会いたいなあ………。
 そう考えながら日野はいつの間にか眠ってしまっていた。

 目を開けると、空が青かった。
 ――寝ちゃったのか………。
 そのことに笑って、時計を見て青ざめた。
「遅刻!」
 急いで起き上がって、支度を始める。そのまま出ていけば間に合うのだろうが、支度がある。それにプラス悩む時間も欲しい、がそれはあきらめる。
 夏は終わりを迎えたというのに、なにもかけずに寝ていた身体はしっとりと汗ばんでいた。連日猛暑のニュースが流れているが、今日もきっとそうだろう。時計を見れば、今から待ち合わせ場所に着くのはちょうどくらいだ。歩くだけでも汗ばむ陽気だから、走ったらきっとせっかくの支度もぐちゃぐちゃになるだろう。それでも志水を待たすわけにはいかないから、早く歩こう。
 日野は家を出た。まっすぐに日野の目に飛び込んで来た太陽が、今日の暑さを予感させた。
 それでも志水に会えるのはうれしかった。

 待ち合わせ場所に着くと、もう志水はその場所の近くに佇んでいた。
「桂くん!」
 声に、志水が顔を上げる。そして日野の姿を認めると笑顔になった。日野に向かって歩いてくる。
「……香穂先輩」
 日野は近づいてくる志水に目を細めた。しばらく見ない間に、またひとまわり大きくなった気がする。いろいろな面で成長したのだろう。コンサートの間だけでも変わったと思った。本当に志水は成長の途上にあるのだとあらためて痛感する。
「お久し振り、桂くん」
「お久し振りです、香穂先輩」
 少しの間、言葉をかわさずに見つめ合う。だがだんだん志水のまなざしに恥ずかしくなって、日野は云った。
「そういえば私、桂くんを待たせちゃったんじゃない?」
「いいえ、さっき来たところです」
 日野の言葉に志水は首を横に振って、笑顔で答える。
「よかった………こっち、もうずっとこんなに暑いから、ちょっとでも待たせちゃったら熱中症になっちゃうってあわてちゃった」
「大丈夫です……僕、そんなに弱くないし、急いで先輩が怪我したら、そっちの方が困ります……」
 志水の言葉にうれしくなりながらも、日野は笑って首を振る。
「私もそんなに弱くないわよ。じゃ、行こう」
 今日は二人で学院へ行く。練習室で音合わせ――それが志水が一番に望んだ誕生日プレゼントだった。音楽科の練習室は休み中もほぼ毎日使用を許可されている。音楽科にいる者は大体自分の練習室を持っている場合もあるが、そうでない者のために普段よりは少ないが解放されている。練習室のない日野はこの夏、ずいぶん世話になった。この日は、志水の望みを受けて大分前からおさえてある。
「楽しみです………先輩の音」
 歩く道すがら、志水が云う。それに日野も云った。
「私も楽しみ。桂くんの音」
 離れてから、自分でもわかるくらいに音が変わった気がする。気持ちの面はあまり変わりがないから、月森や他の先生方に見てもらったおかげで技術が向上したせいだろう。それを志水に聞いてもらうのは、少し恥ずかしい気がした。
 だが、離れている間の志水の音の変化も興味があった。
 技術はかなりの完成度だが、それでも志水も音が変わる。コンクールに携わった者も日々音が変わる。あの月森でさえも、だ。まだ、自分の到達点ではないのだろう。それは日野にもわかる。
 そして2人は学院へ向かう道に曲がった。
 それが合図だったかのように、2人の間に沈黙が落ちる。
 その道は、曲がる前の喧噪が嘘のように静まりかえっていた。住宅街だから通行人が少ないのはわかるが、庭先も静まりかえっていて、これまで人の気配がないのもおかしい。おそらく暑さのせいで、外にも出たくないだろうことはわかるのだが。その静まり返った空気に、志水はともかく日野の口は重くなる。話したい気持ちでいっぱいなのに、言葉を発するのすらなにかを侵してしまうような感じがあった。
 日野はうだるような暑さの中に、2人だけが取り残されたような気持ちになる。
 2人はしばらく人気のない道を歩いていた。
 沈黙を破ったのは志水だった。
「………世界が、僕たち、2人だけになったみたいです」
 その言葉に、呪縛が解けたように日野はほ、と安堵の息をついて、頷いた。
「――本当に、そんな感じね」
 重い空気は『世界に残された最後の2人』だったからなのか、と納得してしまうほどにこの静寂は暑さがもたらしたとわかっていても不自然だった。知らず、頼るように志水の手を探す。指先で触れた手は優しく、日野の意図に気付いて、握り返してくれた。
 それほど長い道ではなかったので、2人はまた道を折れる。すると住宅街でもこちらはまだ人気があって、日野は知らずホッとして、それから志水と2人きりではなくなったことに少し落胆したのだった。

 練習室の空調はかなり効いていて、外を歩いて出た汗はすぐに引いた。楽器の扱う以上、当然なのだろう。ただそのおかげですぐに互いに楽器を取り出して、演奏の準備が出来た。
 そして奏でる。
 離れる前に合わせた音とはかなり違った、それは互いに思っていて、だけど言葉で確認せずに、音を互いに調節して相手に合わせながら、奏で合って旋律を造り出していく。
 それは手探りで相手を見つけるような感覚で、日野は楽しんで、新しい志水を探す。そして志水も同じように変わった日野を探す。
『音楽に、言葉はいらないって、どこかで聞いたことがあります』
 コンクールが終わる頃に、志水がなにかの話の中で云った言葉。それ以降、2人が合奏する時の音合わせは言葉を使わない。時間に追われる時もあるが、そういう時はピシッと合う。ただ今はそんなに急いでいないので、遊ぶような感覚で互いに音を探り合っている。
 そうして重なった、と思った時には、休み前とはまた違うハーモニーが出来上がっていた。
 重なった瞬間、志水がある曲の出だしを奏でて、日野を見つめた。日野は頷いて、その後を追う。楽譜はすでに用意してある。
 その曲は、『愛の挨拶』。
 そこから何曲か楽譜を繰りながらノンストップで弾き続ける。終わる頃には空調が効いているのに身体は汗ばんでいた。
 だけど、気持ち良かった。

 いったん休憩を取って、それから練習室で時間いっぱいまで演奏した後は公園に向かった。
 暑さのピークは過ぎたが、日はまだ高く、外に出た瞬間に汗がじわりと滲む。それでも2人は公園に向かった。海のそばの公園なので、近づくにつれて風を感じた。日野はそれを待っていた。
「あー、ここなら外にいてもちょっとは過ごしやすいかも」
「思ったより、暑かったです」
 志水の言葉に、日野は慌てる。
 日野からしたらこの暑さは日常だったが、志水のいる場所ではどんな気候かは多少わかるものの、細かい部分まではうかがいしれない。もしかしなくても耐えられないくらい暑かったのを、我慢してくれたのかもしれない、と思う。
「大丈夫? どこか涼しいところ入ったほうが良かったかな」
 志水は首を振って笑んだ。
「いいえ、大丈夫です。ここは風があるから……ここがいいです。――あ、でも先輩は涼しいところがいいですか」
 逆に気を遣われて、日野はあわてて首を横に振った。
「ううん、平気よ」
「それではここにいましょう。――やっぱり暑いから、人、少ないです」
「そうね」
 海の見えるベンチを指差して、志水が云うのに、日野は従って、2人は並んでベンチに腰掛けた。
 それから2人はペットボトルのジュース片手に、離れている間の互いの生活について話をした。そばにいない分、かなり密に連絡を取り合っていたけれど、相手の口から直接聞く出来事に改めて驚いたり笑ったりする。
 日が暮れるまでかなり時間があったのに、ペットボトルを何度も補充して、あっという間に日が落ちかけていた。
「うわー、夏は日が暮れるの遅いのに、あっという間!」
 我に返った日野が呟くのに、志水も頷いた。
「本当にあっという間、です」
 日々は輝きながらも早く過ぎていく、音楽を知ってからは特に。
 その中でも志水と過ごす時間の過ぎ方は日野にとっては、どれだけあっても足りないほどいつも短く過ぎる。言葉のない練習も、こうした他愛もない話も、すべてが愛おしく、噛みしめる間もなく過ぎていく。大事にしたいし、しているのに、時間は気がつけば過ぎていく。それでも共有している事実はとてもいい。
「そうだね。最近桂くんと一緒にいると、時間が過ぎるの早く感じる。今日は久し振りだから特に時間を忘れちゃった。そろそろ、夜ご飯、食べに行こう」
 今日、夕食を食べる店は決まっている。志水の了承ももらった。
 ケーキのおいしいレストランだ。
 本当は練習の後にケーキを食べてもらおうと作る画策をしていたのだが、連日の猛暑に日野はあきらめた。前日の夜、買い物に行けるギリギリの時間まで待っていたのだが、天気予報の気温は下がるどころか上がるとのことで、さすがに手作りに執着して志水の具合を悪くしてしまうのは嫌だった。手作りはなにか機会があれば、その時にしよう。そのくらいにこの暑さは外にいれば食べるものがすぐ悪くなってしまうような気候で、ケーキを気にしてそれを志水に気遣ってもらうことはしたくなかった。ケーキはないけど、自由に動けるのを優先した。そして手作りじゃない代わりに、夕食を取る時にささやかな誕生日の意味を込めて、ケーキも頼んでしまうつもりで店をピックアップしたのだ。
「はい」
 立ち上がる日野に続いて、志水も立ち上がる。
 荷物を持って、行こうか、と志水に云おうとした日野の言葉は発せられずに止まる。
 志水は海を見ていた。
 気軽に声をかけられないような静謐さが漂うその姿に、日野は引き込まれるように見蕩れた。
 音楽に対して真摯な姿はどこか祈りに似ている――志水と仲良くなるにつれて、いろいろな面が見えてくる。音楽が深いことも知っていたが、それを語る姿は神に祈る姿にどこか似ていた。今もそんなふうで、志水の奥に眠る音楽はどんなだろうと日野は考えながら、そのただずまいを目に焼きつける。
 どのくらい時間が経っただろうか。
 短いようで、長かった気がする。空気を破ったのは志水だった。
「夏、もうすぐ終わりますね」
 志水の声に、日野はハッとするが、志水の視線はまだ海に向けられたままだ。見ていないだろうと思うが、日野は頷いた。
「こんな夏なら終わって欲しい」
 外に出る度、暑さにうんざりしていた。家の中でも空調が効いていても暑いと思っていた。こんな夏は初めてだった。
 日野の言葉に「暑かったですから」と志水が云って、それから言葉を継いだ。
「でも、やっぱり、淋しい」
 海を見つめる瞳が陰る。長いまつげが繊細そうに震えるのに、日野の胸は締めつけられる。
「………どうして?」
「香穂先輩がいる夏が終わっちゃうんです。………淋しいです」
 志水がそう思ってくれるのはうれしい。
 だけど、自分はもっと志水のそばにいたいし、彼が許す限りそうするつもりだ。だから云う。
「秋も冬もある。来年の夏だって、私、志水くんと一緒にいたいわ」
 ようやく志水は日野に顔を向けた。心細い瞳が縋るように日野を見る。
「僕もです、香穂先輩。だけど、一緒にいてくれるってわかっても、淋しいんです。どうしてかわからないけど、……淋しい」
 志水の言葉は、聞いている日野も胸をかきむしられるような寂寥を伝えてくる。
 無意識に日野は志水を抱きしめていた。子供をあやすように、志水の頭を撫でる。
 そうしながら思ったことを云った。
「桂くんは、今まで、そう思ったことがないの?」
 志水は頷いた。そうして日野の身体に腕を回して、日野の方に顔を埋めて云った。
「ええ……あまり、なかったです。コンサートが終わって、今を思えば淋しい気持ちだったのも初めてで………」
 日野は赤くなる。だがこのぬくもりが抱えているものを少しでもやわらげたいと思う。
「そう思うきっかけが私だなんて、うれしいような、恥ずかしいような気がするけど――」
 言葉を切って、顔を上げて志水を見た。志水も目線を合わせる。距離が近いと思ったが、志水は気にならないようなので、日野は言葉を継いだ。
「私はずっと思ってた。コンサートが終わって淋しいとか、それで桂くんとかかわりがなくなると淋しいとか――でも、こうやって特別な2人になれて、一緒に過ごせるようになってから、淋しいとは思わなくなった。桂くんは優しいけど、いつか仲違いをしてしまうかもしれない。それでも、これからの毎日が桂くんを中心に回ってる、夏休み、離れて淋しかったけど、なにかと桂くんを思い出してばかりいた。そういうのだって、特別になれたからなんだなあって思うと、落ち着けばうれしくて。もう最近は桂くんに会える日までのカウントダウンでしょ? 日々が早く過ぎてしまえって思ってたわ」
 日野の言葉を一心に聞いていた志水は、しばらくその内容を反芻するように視線を泳がせて、それから日野に視線を戻して云った。
「そういう、考え方もあるんですね」
「淋しいって思う気持ちも大切だと思うけど、これからのことを思うのも大事――えらそうに云えるほど人生経験ないけど」
 感心した口調が恥ずかしくて、日野は肩を竦めて、ぺろりと舌を出した。それから名残惜しいが、抱き合うような形でいた志水の身体を離れる。
「さ、行きましょう。ご飯とケーキが待ってるわ。桂くんの言葉を借りれば、おいしいも淋しいも、すべて音楽に繋がっている――――素敵ね」
 あっけらかんとした日野の言葉に志水はぽかんとする。意味がわからなかったわけではない。すべてをひっくるめてしまう日野の天真爛漫さにだ。
 そして頬笑んで、数歩先を歩き出した日野に早足で追いついて肩を並べると云った。
「そうですね」
 志水の笑顔に、日野も微笑み返した。

 もうすぐ、夏が終わる。
 それでもこの人がそばにいる限り、過ぎた時は惜しむけど、もう淋しくはない。
 ある意味、この気持ちが最高の誕生日プレゼントだと志水は思った。
 end



20071001up 2007年夏設定で。暑かったですね、ホントに。