【我が心に優しき雪が】

 ただ、冷たいだけのどちらかといえば迷惑な自然現象が、あたたかい想い出に変わる。
 ――その瞬間を、知っているか?

 銀座の街に、ひらりひらりと白いものが落ちてくる。一瞬だけなにか、と目を眇めて正体を知ると、正は傍らを歩く人物に目を向ける。
 冬のある一日。忘れ物を持ってきてくれた使用人の買い物に、何故か付き合うことになってしまった。車を待たせ、買い物を終え、車まで歩く短い道のり。
 彼女は正の予想通りに、それを見つめ、目を輝かせていた。
「わぁ、雪ですね!」
「お前は雪が好きだな、はる」
 予想通りだというのに呆れた口調の正の言葉に、はるは満面の笑みで頷いた。
「はい! 最近特に好きになりました」
「どうしてだ?」
 ふと自分の心にある出来事を思い出しながら問う。
「正様と雪合戦をしたからです」
 はるの言葉は、正が思い出した記憶を一致した。それがうれしくて、口の端を上げる。
「そうか。せっかく私に勝ったのだからもっと欲を張ってもよかったのに」
 説明されて一応納得したのだが、やっぱり腑に落ちなくて云う。彼女が今「あの時は失敗しました」と云って、今別の願いを云ったらそれも叶えてしまうかもしれない。そんな気持ちだった。もっとも正の知るはるは、そういうことは云わない。
「そうですか。あの時も云った通り、ああいうことを正様にお願い出来たのは十分に特権を行使していたと思いますけど」
 案の定、正の言葉に不思議そうに首を傾げて云うのに、正は笑った。
 ――だから、いい。
「そうか」
「はい、雪が降ると普段より一段と寒いですよね。降るのは綺麗だからいいけど、寒いなぁ、と思った時はあの時のことを思い出してやり過ごします」
 はるの言葉に正は笑った。
「そうか。あの日のことはおまえが寒さをしのぐためか」
「あ、馬鹿にしましたね! 大事なことなんですよ」
 使用人以前に年上に対しての礼儀も今一つなはるの抗議に、正は苦く笑う。
「それなら寒い時は、私があたためてやろうか」
 ふいに浮かんだ悪戯心のまま、はるをひた、と見つめ、言葉にしてみる。
「えっ!?」
 途端にはるの頬が朱に染まる。正はたまらずに吹き出した。
「冗談だ」
 うー、と唸って、赤らむ頬を荷物で隠すようにしながら、はるがぽつりと云う。
「正様はあまり冗談をおっしゃらないから、………どきどき、します」
 はるの言葉よりも、その動作のかわいらしさに正の鼓動も速くなる。思案する風に目をそらしつつも見ていたくて視界の端で見つめる。
「――そんなことはないがな」
 自分だって、冗談を云う時もある。――多分。
「そんなことありますよ! 多分、嘘だと受け取るとひどい目に遭います」
 赤い頬をさらに紅潮させて、はるは強く云った。
「そうか。でも大事な時に冗談は云わないぞ」
「………じゃあ、今は大事な時なんですか?」
「―――っ!」
 ――多分、大事な時だ。そしてそれを気付かせてくれたのは……お前だ。
 咄嗟に思ったが、はるの言葉に、正は答えを返せない。
「正様?」
「ああ、いや。こういうふうに、ゆっくり歩くことなんてなかったからな。けれど、時間の無駄では、ないな」
「それ、私の問いに答えてもらってません――でも、正さまが少しゆっくりしてくれるとうれしいです」
 抗議しつつ、はるが笑って云う。正もその表情を目を細めて見る。
「私が休むとうれしいのか。変な奴だな、お前は」
「そうですか。正様は少し働き過ぎです。仕方ないかもしれませんが、って、私もお屋敷の買い物、付き合わせてしまってますね。………すみません」
「いいさ。気晴らしだ」
 本当に仕事でたまったものがそぎ落とされている気がする。
「ちょっと荷物が多かったので、助かりました」
 そうはいっても、正の鞄を含め荷物のすべてをはるが持っている。けれど何故か持ってやりたいと思った。
「………ついでだ」
 結局手が出すことは出来ずに、前方に車が見えてきて、正はそっと呟くように云った。
 じょじょに勢いを増していく雪が2人の周りを静寂に押し込めていく。けれどもそういうのもいい、と正は思った。

 車窓から見える雪が激しくなってきている。
 荷物の肩代わりはしなかったが、はるを車に乗せられたことは良かった。
 この使用人らしくない少女は芯は強いが、使用人としては及第点ぎりぎりだ。彼女に荷物を任せたら、大変になるだろうことが容易に察せられた。
「このまま積もれば、また雪合戦が出来そうですね」
 外を見たはるが云うのに、正は答える。
「雪合戦はもうせんぞ」
「残念です。――でも、やっぱりあの時のお願い事を間違えていなかったです」
「ふん、変な奴だ」
 そして沈黙が落ちる。車の音と、かすかに互いの息遣いだけが聞こえる。
 ――なにを考えている?
 正ははるの方にちらりと視線を向けながら思う。前は率直に言葉に出来た。彼女は使用人で、自分は正当ではないが主人だから当たり前だった。けれど今はなんとなくためらわれた。
 ――信用出来うる使用人になったからか。
 彼女には気持ちを楽にしてもらっていた。仕事は頑張っていても、やはり及第点くらいなのだが、彼女はこちらの心の機微に聡かった。そういう癖に無知で、図々しい。初めは煩わしかったのに、もう今は気にならない。
「――雪を見るたびに、正様が私を思い出してくれたら幸せです」
 ぽつり、とはるが呟くように云った。
 視線はあまり向けなかったが、全神経がはるに向いていたのを悟られたのか、どきりとし、それから平静を装いつつ、はるに答える。
「しばらくはその経緯の悔しさで忘れんだろうさ」
 その言葉に、はるがうれしそうに微笑む。
 瞬間、正の脳裏に浮かんだあの雪合戦の時間の回想に、色が灯った。それは今までの正の回想にはなかったあたたかい、優しい色だった。
 ――ずっと………雪が降れば思い出すだろう………。
 将棋に負けた悔しさでもなく、ただ、はるとした雪合戦のことだけを。
 ――いつか、はるが私のそばにいなくなっても、きっと……………。
 その日はいつか訪れる。
 けれども、まだはるを手放したくなかった。そう思いながらも、隣に座るはるの手すら触れられない自分に、自嘲気味に笑みつつ、正は屋敷に着くまで、車窓からの雪を眺めていた。
 end 101005up

きっちりやり直していないのですが、澄田家から戻ってきての話。