【ぬくもりの跡】
あの出来事は、はるにとって衝撃以外の何物でもなかった。
その翌日に起こったことまで含めれば、本当に予想もしていなかったし、まるで嵐の中に放り出されたような感じがした。
――雅様って………。
怒涛の夜だけでは終わらず、はるは使用人の身でありながらある意味宮ノ杜家の中で相当に注目を浴びている。そしてはるも仕事の合間に思い返すのはそのことだった。今も掃き掃除をしながらあのことからの一連の出来事を思い返している。
舞踏会での事故でしてしまった接吻の責任を雅が取るつもりらしいことに驚いた。
互いに初めてと云った時、雅は全く動じていなかったのに、そこまで考えていてくれたのか、と戸惑いの方が大きかったけれどもうれしかった。
使用人になって、一番つらかったのは雅からの扱いだった。
一時はやめようと思ったくらいの扱いだったのに、気がつけば、そういうことは減っていった。言葉は相変わらずきついが、はるの受け止め方が大人になったのか、雅の態度が少し落ち着いたのか、自分を指名してくれるようになり、割と雅のそばにいるようになった。
その理由が、雅がはるに触れる、ということで、そこから発展して舞踏会の相手に指名され、ドレスを贈ってもらった。その時にもらった本で必死に勉強し、当日に臨んだ。一つしかステップを覚えていないことも承知してくれて、それなりにはうまく踊れていたはずだった。
しかし足を裾に取られ、体勢を崩したはるを見捨てることなく抱きとめた雅とはるのくちびるがくっついてしまった。
それが事故のすべてである。
落ち度は自分にあるので、はじめての接吻だと云っても、そのことに心傷つくことは少なく、むしろ大勢の前でしてしまったこと、その相手が雅であること、雅も初めてであったことにどうしようと慌てふためいた。
一応は夢見る乙女であったが、突然で、しかも状況が「初めてだったのに」と衝撃を受けることより「なんてことになってしまったのか」という気持ちの方が大きかった。
――あの時、『避けてください』って云ったのに、雅様はちゃんと私を抱き止めてくれたのよね……。
近い距離で倒れこんだはるの身体は、雅にしっかり支えられていた。
春には体調の悪い雅の身体を支えたり、夏の帰省時に会った時は体勢を崩して、全身で雅の身体を受け止めたり、偶然とはいえ、結構雅に触れていることを思い出し、はるの顔は赤くなる。
子息たちの中で一番目線が近い。彼らはその家柄だけではなく、母親が異なっているのに、それぞれに長身で容姿が整っている。雅も背は彼らに比べれば低いが、その容姿は人目を惹く。洋装を好んで、ほっそりと見える身体が意外に重かったのも記憶に新しい。とはいっても異性とそういう風になることはないので、比較対象はないのだが。
それでも雅がはるを支えて、体制を揺らがせなかった。それなりに鍛えているのだろう。
――意地悪だけど、結構優しい人なのかも。
最近は言葉が素直でないということもわかってきた。
ドレスを贈ってもらったり、意外に街鉄が好きだったり、言葉そのままを受け止めるのではなく、その言葉から雅の意思や希望を考えるようにしている。
たえから聞いた話だと、宮ノ杜家の他の子息に懸想して、あっけなく散った話も聞く。そういうことに成り得ないと云われている筆頭の六男に一番責任感があるというのも意外といえば意外な話である。
――あの接吻は数に入れないって、私も割り切ったのだけど……。
真っ向から拾った六男の対応に困り果てていると云えばそうかもしれない。その対応ははるも含めて、誰もが望んでいないし、あってはならないことなのだ。
だから事あるごとに、はるはくちびるに触れて、あの感触を思い出している。
「なに、ぼんやりしてるの」
冷たい、どこか蔑むような声に、はるは身を強張らせる。その固まった状態で振り返って、頭を下げる。
「はっ、雅様! おかえりなさいませ!」
「……今日、学校行ってないし、出かけてもいないんだけど」
言葉に鑑みれば、今日は日曜日で、朝に見かけたきり、雅を送り出してもいないことに気付く。
「申し訳ありませんっ!」
あわててもう一回頭を下げて謝る。すると俯いた足先に、ふん、と鼻を鳴らして、雅ははるに一歩踏み出したのが見えた。
「はるは僕がどこに行っていればいいと思ったわけ?」
「いえ、特には……」
あわてたのは雅のことを考えていたからで、それ以上の悪意や思惑があったわけではない。
「なにそれ、つまらないの」
そう云いながらも足ははるの前から去らない。
困ったように顔を上げると、雅ははるをまっすぐに見ていた。雅がはるを構うようになってから、時折こういう目をされることがある。その視線の強さに、見返してもいいのか困る。
「申し訳ありません……あ、でも雅様のことを考えていたので、お礼を云いたいな、と思っていました」
「何のお礼?」
雅は思い当たらないとばかりに首を傾げる。
ちゃんを云いたい、と思っていたが、あの日のことを自分から蒸し返すことになって、はるは困った。そのくらい今の雅の出現にあわてていたのだろう。しかし途中まで云いかけてしまったし、いずれは自分のけじめとして云いたかった。それが今でもよいだろう。はるは覚悟を決めた。
「……先日の舞踏会の時、私がよろけたのを支えてくださって―――」
「ああ、あれ。避けてもよかったんだけど、おまえの相手である僕の外聞も悪いしね」
さらりと返される言葉に、はるは微笑んだ。
「雅様って、結構力あるんですね」
はるの言葉に、ふん、と息巻いて、それから顔を背けるようにして云った。
「茂に勝てるくらいだし、あれくらい当然。――でも、重かった」
その頬と耳が少し赤かったことにはるは気付いたが、それより率直な言葉に、胸を押さえて呻く。
「う。精進します」
「まぁ、支えられたからいいけど。――それに、お前ともう一回、してみてもいいかなって……」
「え? えーと、最後の方聞こえませんでした」
囁くような声だったが、二人の距離ではその囁きは聞こえない。はるが問い返すと、きっと雅がはるを睨みつける。
「なんでもないよっ!」
「え、でも、なにか聞き逃してはいけないことのような……?」
小さいけれど、とても大切なことを云われた気がする。だから勇気を持って問い返したのだ。
「聞こえたんじゃないの!」
雅のきつい口調に、聞き逃すのではなかった、と後悔した。はるの直感は合っていた。あわてたはるが、雅へ一歩踏み出した時、体勢を崩した。
「聞こえてないです! って、きゃあっ!」
「はるっ!」
はるの行動に気付いて、一歩退いた雅が大きくはるへ踏み出して、彼女の腕を引っ張る。
慣性の法則で、雅の方に倒れこむようになったはるはまたしても、雅のくちびると衝突しそうになった。それはかろうじて回避したが、2人はかなりの至近距離で見つめ合う。
「…………そんなに僕のくちびるを奪いたいわけ?」
沈黙を破ったのは雅だった。
「いえ、滅相もありませんっ!」
思わず後ずさるが、はるを支えようとした雅の腕の力が強くてそれはかなわない。困るはるを雅はにったりといった感じで微笑んで、はるの耳元に囁いた。
「いいよ、はるなら。僕のくちびるを奪っても」
「え?」
ぎゅっと抱き寄せるようにして云う言葉に、はるの身体の温度が上がった。
「一回も二回も一緒でしょ? だからしてもいい。どうせ結婚するんだしさ」
「な、ななにを云ってるんですか!」
「はは、真っ赤だよ、はる。……冗談だよ」
云って、雅ははるの身体を開放した。
雅の言葉にほっとしたものの、まだはるの胸の鼓動は収まらない。それを悟られないように毒づく。
「もうっ!」
「こんなあの人の手のひらの上でなんて、やらないさ」
今度の呟きは云ったことすらはるは気付かなかった。
「はるー! そっちの掃除終わった―!?」
「あ、はーい!」
たえの呼びかけに、はるが応答する。雅はひらり、と身を翻していた。
「じゃあ、僕は行くよ。キス……じゃないや、接吻はまたね」
「…………」
――はい、ともいいえ、とも云いづらい……。
答えられずに、はるは睨むように雅の背中を見つめる。
彼の姿が消えるまではるは見送って、それからはあっとため息をつく。
まだ雅が自分の身体を抱きしめているような感覚に、たえに叱られつつ掃除を終わらせながらも、ずっと支配されていた。
end 100921up
ありきたりでも自分で書いてみたかったお話。
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