珍しい風景に、月子はひととき、声をかけることすらせず見入ってしまった。
 ――この時間に、ここに、犬飼くんがいるのは、珍しいかも。
 星月学園においての部活動は珍しい。
 弓道部もその例にもれず、部員は少ない。その中でも、練習は比較的活発にしている方だが、特に、とつけたくなるくらいに練習に励んでいるのは部長と副部長と、もしかしたら自分かもしれない。
 ――あの日から……。
 名前も知らない少年に「弓に光がない」と指摘されてから、やるべきことが見えてきた気がする。はっきりと目標が定まると、自然練習に熱が入る。そしてのめりこむように、周囲を見回す余裕もなく練習を続ければ、気がつけば的が見えなくなって、日が暮れているのに気付く。
 あの日から、割とそんな日々を送ってしまっていた。
 部長の金久保も副部長の宮地も、月子が気付くまで放っておいてくれる。宮地の場合は特にだが、月子と同じで時間を忘れているようだ。彼らと練習後に残っている時は、誰も止める人がいないので、夕食の時間を過ぎていることがある。携帯のアラームなどで工夫をするようになったが、どうしても納得出来ないと、それでも集中力で聞こえなくなってしまう。
 今日はどちらもいないので、練習後にまた練習をするという月子は弓道場の鍵を金久保から預かった。
「遅くならないうちに帰るんだよ」と優しい声で鍵を渡しながら金久保が云ってくれた。
 二人がいない時、部は犬飼が指揮を執る。
 前ほどはやりこまなくなったが、調子が悪いとその修正をするのに、何度も弓を引き続ける。ここ数日、弓を引く姿勢が変わったのか、的に当たらなくなった。当たらなくても、大丈夫、と思う時がある。しかし大抵はダメかも、と思って、ひたすら引き続けてしまう。
 今日もそんな感じで、練習後に残る、と云い、3人は少し心配そうな表情だったが、月子が引き下がらないのもわかっていて、練習時間が終わると「先に帰る」と引き上げていった。
 そして今、的が見えづらくなって、月子は時間の経過に気付いて、ぼんやりと周囲を見渡した。その時に、月子から一番遠い場所にたたずむ犬飼を見つけたのだ。
 ――帰ったんじゃなかった、の、かな………?
 大熊と白鳥と一緒に帰ったはずの犬飼はしかし、弓道着のままで、弓を持っている。見れば、もうかなり見えづらくなっている的にも、矢が何本も刺さっていて、彼が練習していたのは明白だ。
 どうして、と思うのは変かも知れない。
 でもあまり見かけない風景に、なぜ、と思ってしまった。
 凛とした立ち姿、的をまっすぐ見つめる視線が強いのが離れていてもわかる。
 きれいだ、と思う。
 普段も的を前にした練習の時はみな真剣な面持ちだが、こうして犬飼が一人、的の前に立つ姿はあまり見ないので、少し新鮮に感じる。
 どのくらい、自分が弓を射るのも忘れて、彼を見つめていただろうか。
 その間、犬飼は弓を構えなかったので、時間にしてそんなに長くなかったのかもしれない。
 ふ、と、犬飼がこちらに顔を向けた。
 どきり、とする。
 それまでの張りつめた空気は、犬飼が月子の姿を認めた瞬間、霧散した。確かに、弓を持って、的を見据える姿を見られるのは恥ずかしい。もっとも的を前にすれば集中してしまうのだが、なにかの拍子に視線に気付くと、少し気恥ずかしい気持ちになる。そうした時、金久保も少し照れた表情をし、宮地でさえ、なんとなく気まずい空気を出すのだが、犬飼はもっとがらっと変化した。
「気付いてたんなら、声かけてくれよ〜」
 にっと普段見せる笑みで云うと、こちらに歩いてくる。
「ごめん」
 見てはいけないものを目にした自覚があって、思わず謝る。すると犬飼はくすぐったそうな表情を浮かべる。
「別にいーけどよ、お前、これで終わりか?」
「う、うん」
 もう的が見えなくなってきた。練習を始める時よりは少し手応えがあったから、これ以上はやらない。無理をし過ぎるな、とは、部長副部長共に口をそろえて云う言葉だ。明日もう一度2人に型を見てもらってからでも大丈夫だろう。
「ホントに?」
 月子の表情でなにかを感じたのか、犬飼がわざとらしく探るように尋ねた。
「うん、大丈夫」
 今度は月子もその犬飼の様子に笑いを誘われて、笑みを浮かべて頷いた。
「よし、じゃ、帰るぞ」
 云って、立ち上がると自分が射た場所に戻って片付けを始める。
 ――もしかして…………。
 思ったことはあっという間に距離が離れてしまって、わざわざ声を上げて問うのも変な気がして、飲み込んだ。
 ――後で、聞けばいいかな。
 犬飼の背中にそう思うと、月子も自分の周りから片付けを始めた。

「ねえ、犬飼君」
 互いの着替えが終わるのを待って、並んで歩き出してから、月子が口を開く。
「ん、なんだ?」
 珍しく寡黙な犬飼が、月子の言葉に、顔をこちらに向ける。
「もしかして………待っててくれたの?」
 よく考えれば、犬飼と2人になったことは滅多になかった。金久保や宮地と練習帰りに寮までの道を歩くことはあって、彼らとはそれぞれ2人になることはあるけれど、犬飼や白鳥、小熊たちは3人一緒というイメージが強く、彼ら個々と2人になることは記憶をひっくり返しても、ほぼない。
 けれども。
 こうやって、金久保と宮地がいない時は、犬飼がこうして帰り一緒だったことを思い出す。それは「ノートを取りに戻ってきたら、まだお前やってんだもんな〜もう帰ろうぜ」とか「帰った後、図書室に寄って、なんとなくのぞいたらまだお前やってるしさ」と云った感じで偶然だった。
 でもそれは本当に偶然だったのか。
 月子が疑念を抱いた瞳で見つめると、犬飼が大きく息をついた。
「俺ももう少し練習したかったから、ついでだよ」
 普段と同じように、軽い口調で云うが、普段と違って、月子をあまり見ない。
「そう?」
「―――そういうことにしといてくれよ」
 これ以上追及されたくないのか、犬飼が降参と肩を竦めて、云った。
 早い時間でない限り、一人で帰ったことがないのは心強い。たとえ寮まで短い距離だとしても。
 その優しさを、追及することで台無しにするつもりはない。
「わかった。これ以上は聞かない」
 月子の言葉に、犬飼は安堵したように息をついて、そしてにっと笑った。
「…………サンキュ」
 そして2人はそれぞれに黙る。
 落ちる沈黙は苦痛ではなく、月子はなんとなく闇に染まった空を見る。
「夏は、陽が落ちるのが遅いのに、帰る時はいつも夜空になってる」
 別に夜空が嫌いなわけではない。むしろこの学園にいる者は夜空の方が好きだろう。
「インターハイ近いしな。でも、俺もお前も夜空にならないと勉強にならないよな」
「そうだけど……」
「空はいつも違う――そして紡がれる物語も、星の道筋で変わっていくのです」
 後の方はどこか芝居がかった口調で云う。
「そうやって、神話を語り始めるのね」
「まーそんな感じ。しっかしすごいよな。昔の人は月や星以外闇になる中で、夜空にあんな風に物語をつけるなんてさ」
「うん、すごい」
 太陽が支配する中では、人を中心とした世界が動いていくが、夜は少し違う色を見せる。
「あ……」
 ――犬飼くんも、そうだ………。
 夜は少し違う表情。
「どうした? 忘れものか」
 犬飼は少し心配そうな表情で尋ねるのに、月子は首を横に振る。
「ううん、違うの」
 気付いたことを云うのはなんとなくためらわれた。しかし月子の言葉に嘘はないので、犬飼にも伝わったみたいだ。
「そか。忘れものじゃないんだな? 戻るんなら、遅いから声かけろよ。今日は大サービスで付き合ってやるから」
 今日の犬飼は優しい。それがうれしいから、気付いたことを云って、そうしてくれなくなるのはさみしいから誰にも内緒だ。
「うん、ありがとう。でも、ホントに忘れものしてないから大丈夫」
「じゃーな、また明日」
「うん、また明日」
 明日になれば、また普段の軽い感じに戻ってしまうのが少しさみしい。そう思いながら、月子は犬飼と別れた。
 でも。
 寮内に入る直前で、月子は振り返って、夜空を見上げた。
 ――また、夜で、2人になれば、きっと見れる。
 それは予感ではなく、確信だった。その次の機会が待ち遠しかった。



 End 100315up な、長かった〜〜〜! 仕上がるまでが。初犬飼です。いや、初スタスカです。まさか書くとは思わなかったですよ。でも楽しかった。
 それにしても、私は犬飼に夢を見ている。