花は一輪

「ティンカーちゃん、」
 呼びかけに、補習を行うため、ClassZの教室へ向かおうとしていた真奈美は振り返った。その視界に、いきなり薔薇の花束のアップが入ってきて、思わず後ずさった。
「えっ、なに!? アラタくん?」
 真奈美を「ティンカーちゃん」と呼ぶ人物はこの学園広しといえど、一人しかいない。ましてや突然飛び込んできたのは花だ。呼びかけた人物を真奈美はどうにも間違えようもなかった。
 ようやく花越しに、アラタの姿が見えた。声をかけられる普段よりも少し遠いと思うが、それは花をこちらに向けているからだろう。彼は真奈美に向けて、にっこり笑いかけている。女子に対しては誰にでも優しいアラタは、教師である真奈美に対しても例外でなく、とても優しい。けれどもなんというか、いつも口元にたたえている笑みが、かなりくせ者なのにも、真奈美は気付き始めていた。とはいえ、今はそのことは置いておいて、真奈美は冷静に云った。
「今日は補習だから、デートは終わってからね」
 アラタは、花束の位置はそのままに一歩真奈美に近付いた。そうすると、見上げなければならないほど高い位置にアラタの端正な顔が移動する。かっこいいとは別に、最近真奈美は首が痛くなっても、アラタの目を見るようにしていた。今も、視線の位置を変える。目を合わせたアラタは微笑を絶やさずに、首を横に振った。
「違うよ、ティンカーちゃん」
 答えは意外なものだった。真奈美は瞠目して、アラタを見つめる。
「今日はデートじゃないの?」
 水面下での取引みたいに、真奈美はA4たちに対している。
 補習に出てもらう代わりに、多少のことは気にしない。そしてどうしても踏み込んではいけないラインには踏み込まない。後者はいずれ守れなくなる日が来るだろうことはわかっていたが、それまでに信頼関係を築けたら、とは思う。
 女子たちとのデートは、真奈美が目をつむっていることだ。補習の後にしてもらう代わり、その関係の派手さに目をつむっている。実際、女子たちの話を聞けば、毎日デートの相手が違っても、アラタは誠実だし、泣かされるようなことはされていない、という感じだった。気にはするが、そこは今は触れない。
 だからアラタも少しずつそういう予定を真奈美に教えてくれるようになった。補習に出る代わりに、どうしてもの融通はきかせる。
 アラタはなにか面白いことがあるかのように、笑みを深くした。
「デートはするよ。でも、これはティンカーちゃんのための花」
 初め、あくまで学園の女子みたいにあしらわれるのが嫌で、そういった贈り物は拒んだ。というより、教師であるのに、その他大勢に組み込まれるわけにはいかない。それは女のプライドではなく教師のプライドである。
 それをアラタは知っているので、最近はそういうことがなくなった。しかしそうしなくなってふた月くらいは経つので、真奈美は怒るよりも、訝しげにアラタを見る。
「私のため?」
「そう、今日は何の日か、知ってる?」
 問われても、真奈美にはアラタの意図がつかめない。首を傾げつつ、答えられることを口にする。
「7月7日――七夕、よね」
「正解。んふっ、七夕って、もう一つ呼び名があって、それはサマーバレンタインって云うんだ」
「サマーバレンタイン?」
 ――夏にチョコをあげるのかしら?
 単語からの連想に、真奈美は首をひねる。
 けれど夏にチョコというのはアンバランスだ。今日もそれほど暑くないが、外を歩けば汗ばむ陽気ではあった。
 ――だけど、そんな行事ってあったのかしら?
 それよりも、先ほど差し出されたのは花で、チョコではないから、真奈美はその話題を出したアラタがますますわからない。
 さらにまた半歩ほど近付いたアラタが、花束の横に並んだ。
「サマーバレンタインってね、ティンカーちゃん。七夕の日にチョコを贈るんじゃなくて、好きな人にプレゼントを贈る日って意味で、サマーバレンタインって名付けられたんだ」
「そうなんだ…………」
 初めて聞いた。
 ただ、確かバレンタインも、他の国では女性から男性へチョコやプレゼントを贈る、というだけではなく、大切な人へ贈り物をする日、と聞いたことがある。
 それはバレンタインという言葉が持つ意味なのかもしれない。
 ――一応、調べとこう。
 そんなふうに思った真奈美はやはり、花束の意味を測りかねていた。
「ちょちょ〜っと、ティンカーちゃん。そこまで説明して、どうして、オレの好きな人がティンカーちゃんだって思わないのかな?」
 思えない、というのが本音だが、それは飲みこんで、真奈美は言葉を探す。
「気持ちは嬉しいわ」
「ああ〜、それ、ティンカーちゃん、オレのこと、信じてないでしょ?」
「尊敬する人なら、好きな人って云われるよりもうれしいかな、」
 今は、と継ごうとした真奈美は我に返って口をおさえる。
 それに気付かないアラタが少しさみしそうな表情を浮かべた後、にっこり笑った。
「尊敬ーしてるよ、んふっ」
 アラタにしては珍しく、感情がこもっていない。それはわざとかもしれなくて、真奈美は少し大げさに眉を上げてみせる。
「…………なんか、裏のありそうな『尊敬』ね」
「そう? 毎日、オレたちに『補習しなさいー』って追いかけ回すのって、結構体力いるのに、ティンカーちゃんは毎日飽きもせずへたばらずに頑張っているなんて、CTD(超タフだね)!って感じ? これにはマジマジ尊敬しちゃうよ」
 やっぱり、と真奈美はがっくり肩を落とした。
「―――だったらおとなしく補習受けてちょうだいよ」
「追いかけられるのって、興奮しちゃうんだよね。んふっ」
「もうっ! ………補習を始めるわよ」
 このままアラタのペースに巻き込まれるのは困るので、真奈美は教室の方へ向かって歩き出す。
「ちょっ、ちょっと待って、ティンカーちゃん!」
 珍しく素で焦ったようなアラタが真奈美の腕をつかんだ。
「え?」
 振り返ると、真剣な瞳のアラタに出会う。どうしたのだろう、と思うと、また花束が目の前に出された。
「ほら、これは、ティンカーちゃんのための花だから!」
 話題があちこちに行ってしまって、発端を真奈美も忘れていた。アラタに花というのはあまりにも真奈美にとって日常になりつつあったので、その花束の意味をすっかり失念してしまっていた。
 好意的な気持ちで花を贈られるのはうれしい。それが教え子のアラタであっても。
「え、でも、こんな素敵なの、受け取れないから、気持ちだけもらうわ」
「ちょちょ〜っと、そりゃないんじゃない? 受け取ってくれなかったら、補習、マジでさぼっちゃうよん」
 真奈美は少し考える。そして花束に手を伸ばして、一輪だけ抜き取った。
 アラタが持っている花束としては初めて見るような、色とりどりのバラたちの中で、唯一の白薔薇だった。
 一応真奈美のことを考えて、こういう感じになったのはわかった。けれどもすべて受け取りたくなかった。どうしてかうまく云えないが、それは出来なかったので、代わりに一番気になった薔薇を抜いた。きれいに束から抜け出たその薔薇はきちんと棘が抜かれていた。
 ――なんとなく、アラタくんみたい………。
 棘は隠されていて、そして白い。それはアラタ自身のような気もしたし、少しずつ聞き出しているアラタの先のことのようにも思えた。
「この一輪だけ、ちょうだい? そして今度こそ、補習を始めましょう」
 薔薇を持って、笑みかけると、アラタは息を飲んで、真奈美を見つめる。だがそれは一瞬のことで、すぐに破顔した。
「ティンカーちゃんには敵わないなー。―――おおせのままに」
 云って、花束を持ったまま、真奈美についてくる。全部受け取らなかったのに、アラタはうれしそうだ。鼻歌交じりのご機嫌な様子に首を傾げながら、今日ならアラタの苦手科目の補習でも構わないかもしれないと、真奈美は思い、教材が揃っているかを考える。
「―――ティンカーちゃんが一輪選ぶなら、それだと思った」
 その間にぼそり、と呟いたアラタの言葉に、真奈美は気付かずに、2人は教室に辿り着いた。
 end





090913up
うう、不完全燃焼。イベント良く見直さずに勘だけで書ききってしまいました。