重ねて、積み重なる
職員室の中は、外の寒さからすれば信じられないほど、あたたかい。机の上の仕事を一段落つかせて、私はほうっと息を漏らすと、一呼吸つくつもりで大きく伸びをした。
――そろそろ、来るかな。
時間に正確な人だから、急用でもない限り、きっともうすぐやってくる。
今日はもうこのくらいでいいか、と明日に回す分と終わった分をわけつつ片付けを開始する。机の上を片づけ始めると少しして、声をかけられた。
「真奈美、」
声に振り返る。そこには、自分の愛しい人が立っていた。約束の時間ぴったりだ。いつものことだけど、とても彼らしい。声でわかっていたけれど、姿を確認すると改めて、私はうれしくなって思わず笑んでしまう。
「慧くん、」
けれど、呼びかけに笑みを返してくれると思った慧くんは表情を少しだけ沈ませた。それを不思議に思って首を傾げる間もなく、普段の慧くんの表情になった。
「仕事、終わったか?」
いくら卒業生でも、ここまで堂々と職員室に入ってくる人もあまりいない。だけど、あくまで「あまりいない」なのだ。慧くん以上に横柄に来る卒業生もいる。
ある意味すっかり慣れてしまったので、私もあまり気にしていない。それに慧くんは通っている大学が休みでも、きちんと放課後まで待ってくれるからまだいいほうなのだ。それをわかっているから他の先生方も同様に慧くんにはあまりなにも云わない。
「うん、今片付けているところ。隣の先生はもう帰ったから、もう少し待っていて」
「ああ、」
私の言葉に、慧くんはかたわらの椅子に座る。その間も食い入るように、私を見ている。さすがにテスト採点の時は落ち着かないので、やめてもらっているのだけど、こういう片付けや簡単なことの時には気にしないことにした。――それは慧くんが、会えない時間を埋めるように見ているって、知っているから。
どうしても慣れない慧くんの視線にもめげず、私はなんとか片付けを終えた。あとはロッカーに荷物を取りに行くだけだ。
「おまたせ、慧くん。これから荷物を取ってくるから、裏口の方で待っていて」
慧くんを見て、解放されたうれしさとこれからの時間への期待に笑って云うと、またも慧くんは表情を曇らせた。しかしそれもまたわずかの間のことだ。すぐにいつも通りに戻って、それから頷いた。
「――………ああ、」
少し、変だ。
しかしそれを聞くのに、この職員室ではよくないのもわかっているから、慧くんと一緒に出る。そして裏門で落ち合うために分かれると頭をフル回転させる。
――今日は、普通だった。現われ方も、表情や受け答えも。
時折見せる、あの表情だけが浮いていた。
慧くんはとてもまっすぐな人だ。そしてまじめで、自分に厳しい。まじめな慧くんはだいたい行動や言動が同じだ。割と気まぐれに自分を変えたがる慧くんの双子の弟の那智くんとは本当に正反対なほどに。
同じであるところに疑問を持たないのも、慧くんが純粋な人なんだと思わせて、愛しさがこみ上げる。同じといってもその時々の体調やそれまでの時間の過ごし方で若干違う。同じなかでも違いというよりも今日の慧くんを知るのが私の楽しみになっている。会えない時間が少しだけ埋まるような気がする。
しかし、今日の変化は私の心を強く揺さぶる。
ケンカをしたことがないわけではない。まだ付き合って3ヶ月くらいの私たちは、それぞれ時間の許す限り一緒に過ごした。もともとそりが合わなくて、意見の対立もあった。お互いに遠慮はない。
でも、そういう時とまるで違う。
少しだけ慧くんよりも人生の先を行っている私は、ちょっとお姉さんぶっていたことを痛感する。
――こんなに、慧くんの表情に、心揺さぶられるなんて―――!
今でも、慧くんが自分を選んだのは不思議な話だと思っていて、大学に入って、さらにモテているようだから不安だ。慧くんがどれだけ愛の言葉を重ねてくれても、この気持ちは簡単になくなりはしない。
若葉マークはついていたけれど、先生として接していても、生徒である慧くんに惹かれてしまったほどなのだ。それは彼がとても素敵な人だと証明しているもので、大学に入ってそれにさらに磨きがかかっている。それは私も会うたびに実感している。
だから譲れないけれど、云い合いをするたびに後悔してしまっているのだ。
今日はそんなことはないが、いっそそれだったら原因がわかって楽だったかもしれないと思うほどに、原因がわからない。わかるのは、慧くんにその表情をさせているのが自分だということくらいだ。
――どうしよう…………。
このまま、わけもわからずに別れることになってしまったら。
慧くんは正しい人だから、きちんと理由は話してくれるかもしれないけれど、私はそれでいいくるめられてしまうのだ。気持ちは納得しなくとも。
ロッカーから裏門へ向かう道はひどく哀しかった。
一歩一歩辿っていく足が重い。うつむきがちに、想像する未来にブルーになって、そして不意に閃いた。
――あの曇った表情は、なにか不満があの時の慧くんだ。
そうだ、慧くんが卒業してからずっとケンカしつつも、私たちはかなり甘い関係だった。だからその前の慧くんが私に常に不満を持っていたことを忘れていた。慧くんが見せた表情は、私に足りない部分があった時や、出来ないことがあった時の表情だ。
――じゃあ、なにか私に不満があるのかな………?
私は少し安心した。卒業と同時にそういう関係になる前、なんでもこなしてやり遂げる慧くんと出来ないことの多い私は常にそういう感じだった。結局私は慧くんにとってはかなりの実力不足で、慧くんはあきらめたように、最後には私に出来ることと出来ないことを割り振ってくれていた。慧くんに云われたことを必死でやろうとする気持ちはあったけれども、一回倒れてしまった私は無理はしないで、そういう風に割り振ってくれた慧くんの優しさに甘えることにした。
そういうのなら慣れている。
それなら踏み込んでいける。慧くんに聞いて、直せるところは直そう。慧くんは、ちょっとわからないけれども。
――私は、まだ慧くんと別れる気はない。
そう心に決めると、ちょうど裏口に出た。そこにいつものように佇む慧くんを見つけて、私は微笑むと足早に彼のもとへ進んだ。
「おまたせ、慧くん」
それに、慧くんはまた表情を曇らせた。しかしすぐに元の表情に戻る。
「ああ、」
短く私に答えてくれた言葉は、どこかため息のようだ。私はもう我慢出来なくなる。
「・…………慧くんとは、クラスZの指導の手伝いからの関わってきたけれど、――私はいつも、慧くんより出来なくて、困らせてばかりいたね」
どういう風に切り出していいのかわからずに、思いついたままを口にすると、慧くんがいぶかしむように私を見る。
「………真奈美…………?」
もう、止められない。
「『まったくわかってない』と云われたことも何度もあった。でも、察しが悪くても………いいえ、悪いなら、聞けばいい――私はそう思う」
私は慧くんを見据えて、言葉を継いだ。
「今日、ううん、前からかもしれないけど、私、慧くんを不快にさせるような何をした?」
ハッとしたように、慧くんの表情が変わる。だがそれはすぐに苦いものに変わった。
「そんなわけない! 付き合うようになってから、貴女は僕を幸せにするばかりで―――僕は幸せを感じることはあっても、不快に思ったことはない」
まっすぐな言葉に嘘がないのが私にはわかる。彼は嘘をつくのがとても苦手な人。だから慧くんが今日見せた表情は、慧くん自身が気付いていないのかもしれない。
思い直した私は、心配そうに私を見るまっすぐな瞳に気付く。
「………今日ね、慧くん、私と話をするたびに、ちょっと表情を曇らせていたの。だから、私、なにかしたのかなって―――」
私の言葉に、慧くんはなにか考えるような仕草をした。しかしすぐになにかを思い出したようだった。
「あっ!」
ようやく、原因に辿り着いたらしい。
「や、…やっぱりなにかしてた?」
恐る恐る聞く私に、だんだん苦い表情になっていった慧くんは呻くように呟いた。
「――いや、これは、僕が悪い」
「えっ!?」
予想もしなかった言葉に、私は目を丸くする。しかし継がれた慧くんの言葉に、私は更に驚く。
「だが貴女も悪い」
「ええっ!」
私はますますわからなくなる。
きっと途方に暮れた顔をしていたのだろう。それでも私は構わず慧くんを見つめた。
「や、やっぱり、私、慧くんになにかしちゃったの……?」
初めはなんでも出来る生徒。
だけど少しずつ慧くんのいろんな面が見えてきて、その少しずつがたまっていって、私の中で慧くんは特別な人になった。自分の気持ちに気付いたのは卒業式で、そしてその日に慧くんに告白されるなんていう素敵なサプライズ付きで始まった私たちの付き合いは、小さなケンカはあるけれど、とても楽しくて幸せで―――だから慧くんを傷つけていたという自分が許せなかった。
「真奈美。」
自分への怒りに顔をうつむけていた私は、慧くんの呼びかけに顔を上げる。
慧くんは少し苦しそうに私を見ていた。それが私の心を刺す。
「…………付き合い始めた頃、僕がそう呼ぶことを許してくれた」
私は頷いた。
付き合い始めてから少しして、慧くんは私の名前を呼び捨てで呼ぶようになった。恋人だし、そういう風に呼ばれることが所有されているみたいで私はうれしかった。異存なんてあるわけがなかった。
だけど私は、あれ、って思う。
――それ、慧くんを不快にさせたことと関係あるの?
いろいろ考えてもわからなくて、やはり私は答えを探すように、慧くんを見る。すると慧くんも私を見ていて、目が合うと気まずそうな表情をする。しかしそれから目をつむって、目を開けた時になにかを決めたような表情で口を開いた。
「…………どうして貴女は、僕のことを呼び捨てにしない?」
その口調は思い切り不機嫌だった。
――それが、原因?
私は直感した。
しかしわかっても、どうしてそれが慧くんの不快に触れたのか、わからない。
方丈兄弟は双子なのもあって、2人して名前で呼ばれることが多い。どちらかというと、慧くんが名字、那智くんが名前、という場合も多いけれど、とにかく私も慧くんに紛らわしいから名前で呼ぶように、と云われてそれに従っている。それは付き合い始めても続いている。
どんな経緯であれ、慧くんが呼べ、と云ったその呼び名を私は気に入っている。
A4の皆も名前で呼ぶ。その時も「くん」はつけている。那智くんだってそう。
でも名前をくんづけで呼ぶ中で、慧くんはなんだか私の中で特別なのだ。けれどそれを云うのは少し恥ずかしい。
私は少し考えながら云った。
「もうずっと習慣だったし、慧くんはしっかりしているから、呼び捨てにするよりも、そっちのほうが合っているかなって思って」
回答に、慧くんは眉を顰める。そしてすぐに困った表情を浮かべる。
「どうしたの?」
隠さないほうが良かったかな? ちらりと考える。
なにかを考えている風だった慧くんは苦い表情で答えてくれた。
「僕は――、あなたを尊敬していないから呼び捨てにしたわけではない。初めから距離をつけられている。呼び捨てにすることで、そういうのが縮まるかな、と考えただけだ」
「え…………」
慧くんから予想外の言葉と表情が出てきて、私はびっくりする。
彼は、どこから来るんだといったくらいの地震に満ち溢れていて、時に自分の間違いを顧みたりするけど、――少なくとも私のことで、そういう風になるのは考えられなかった。
拗ねたような言葉に呆然としていると、慧くんはきっと私を見据えて、私の方に指をつきつけて云った。
「大体、貴女は無自覚過ぎる!」
「えっ!?」
そう云われるとは思わなくて、私はびっくりした。
――わ、私のせいなの?
「そうだ、無意識に、僕をまだ子供扱いして――貴女を守りたいのだからしっかりしてくるのは当たり前だろう。年の差と立場で最初からハンデがあるんだ。早く、貴女の隣に対等な立場で並びたいんだ。それを………」
慧くんは、初めて会った時からしっかりしてたよ。
そう思いながらもうれしくて、でも申し訳ない気持ちで謝る。
「ご、ごめん、慧くん」
フォローのつもりの言葉もどうやら慧くんを逆なでしてしまったらしい。
「そうやって謝られるのも―――理にかなっているが、子供扱いの延長にしか思えない」
「〜〜〜〜〜〜っ!」
どう云えばいいのか、不覚にもわからなくなって、私はくちびるをかみしめる。
――この大切な人に………確かに、年下扱いはしていたかもしれないけど、ちゃんと一人の男性として見てるよって、わかってもらえるんだろう……?
私は慧くんを見つめて考える。
この胸を、慧くんに見せられたらいいのに。
けれど、それは出来ないから、と私は無意識に口を開いていた。
「―――慧くんが、好きよ」
「―――っ!」
慧くんが息を飲む。
伝えなければ始まらない。人はエスパーのように心を読むことは出来ないのだから、時にはどんなに恥ずかしくても言葉にして、伝えないと駄目だ。
「初めて会った時からしっかりしていて、なんでも出来て、まじめで………ちょっと厳しいけど、自分に対しても厳しい人で……それなのにすごく純粋で、目標のために毎日頑張っている素敵な人」
云うのは恥ずかしい。聞いている慧くんも顔を真っ赤にしているが、私も自分で顔の熱を感じるので、同じように赤いだろう。
「確かに、私たちには年の差がある。けれども私は社会人になってばかりだし、まだまだ子供だと思うところもある。そういうのは、なくなる部分となくならないでいる部分があると私は思う。……………私は不安、だよ」
「不安?」
真っ赤になりながらも私から視線をはずさずに聞いてくれた慧くんが眉を上げて呟く。私は促されるように頷いて、口を開く。
慧くんは怒るかもしれないけど、これも私の本当の気持ちだ。
「ずっと一緒にいる、と云い切ってくれた慧くんを信じていないわけではない。だけど、どんどん新しい世界を開いていく慧くんが、変わっていって、その言葉を云ってくれた慧くんじゃなくなるんじゃないかって…………その時、私はきちんと慧くんの手を離せるかなって」
「それはあり得ない!」
予想通り、慧くんは怒った。そして私の腕を引っ張り、バランスを崩した私の身体をやすやすと抱きとめた。そのまま強い力で閉じ込められる。
「僕だって、もうここの生徒じゃない。新しい生徒に、そして同僚の先生に、真奈美の気持ちがいつ変わるだろうって不安になる。手を離すことなんて、僕は考えない。考えられない!」
強い言葉に反して、激しい心臓の鼓動に私は目を閉じた。私の心臓もきっとこんな風だ。
「私も、離したくない」
「ならば離れることを考えなくてもいいだろう?」
自信満々の言葉に、私は吹き出した。
「慧くんも、私との歳の差を考えなくてもいいでしょう?」
「〜〜〜〜〜っ! それとこれとは別だ!」
「そうかなあ? ――でもね、慧くん、女性が年上って、すっごくすごく、気になるんだよ」
それは慧くんとそういう関係になって気付いたこと。
気持ちに気付いた時もそのことでためらいがあった。それを踏み越えられてしまった時、少し覚悟したけど、やはり時々年上であることに戸惑う。
「そうか。差はどうあっても埋められないから、やはり僕はあなたのふさわしい男になることに全力を尽くそう」
現実を受け入れて、そして前に進む。
それはまじめで、まっすぐで純粋な心根の証拠だ。慧くんが持つなににも代えがたい魅力だ。
「ふふ、これ以上頼もしくなると私が隣にいる意味がなくなるから、今のままで十分だよ」
「いや、貴女がそばにいてこそ、僕は頑張れる」
まっすぐな言葉はためらいがなく、恥ずかしい。
――ああ、うれしいなぁ。
私はその気持ちを込めて、慧くんを抱きしめる。
私はまだ大人になりきらないから、慧くんと誓い合う「ずっと」があると思う。それは「ずっと」と確信するのではなく、今のように互いのことを考えながら、相手への気持ちを想い合って、続いていくものかもしれない。
――慧くんもてるから、私にはハードル高いな。
恋愛初心者同士だけど、慧くんの素質は人を惹きつける。けれども仕方がない。私は慧くんに惹かれて、慧くんは私を選んでくれたのだから。
「さぁ、行こうか」
云い合いも片付けも終わって、私が云うのに、慧くんが頷く。
二人で並んで歩くのに、影が実物よりも重なって見えるのに、微笑む。これが何年も経てば影と同じくらいの近さでも自然になるのかな、と私は欲張りにも思った。それはとても幸せなことだ。
end
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