触れられない
急いでいた真奈美は、始業前ということもあり曲がり角も減速せずに勢いよく曲がった。その瞬間、誰もいないと思ったところに現れた影に驚くが、もう止まれない。
「――――っと!」
ぼす!
声は真奈美が発したわけではなかった。そしてとっさに目をつぶってしまった真奈美に衝撃はない。いやないわけではないが、真奈美自身がなにかにくるまれたような不思議な感覚だった。
――あれ?
首を傾げつつも、おそるおそる目を開けると、真奈美は驚いて目を見開いた。視界いっぱいに広がるのは、黄色を主とした極彩色だ。
この色にも、配置にも、真奈美はすごく覚えがあった。こういう服を着ているのは、おそらく校内に一人しかいない。
「加賀美、先生……………?」
目線を上げると、思った以上に近くに加賀美の顔があった。
曲がり角の影は加賀美で、真奈美はその胸に飛び込んでしまったらしい。思ったより衝撃がないのは、加賀美が受け止めてくれたからだと気付いて、そしてとっさにだが、真奈美は自分が強く加賀美に抱きしめられていることに気付いて、鼓動が速くなった。
――うわ、あの加賀美先生とこんなに近いなんて………。
緊張してしまう。
距離が近付いたと思っても、天童や桐丘ほどに態度は柔らかくならない。それを少しさみしいと思いながらも、加賀美はそういう人なのだとも思っていた。だからこそに偶然とはいえこの距離はかなりレアだ。
「…………お、おう。危ないな、曲がり角くらい減速しろ」
加賀美の言葉に頷こうとして、真奈美はふとあることに気付く。
――加賀美先生、顔、真っ赤だ……………。
真奈美からの視線を避けるような、なのに、真奈美を抱きしめる力だけは強いままなのが、不思議な感じだ。
「はい、すみません…………」
反省もあり、うつむいてそう云っても、加賀美から力は抜けない。恐る恐る加賀美を見ると、真剣な瞳で真奈美を見ている。そして目を合わすことなく、加賀美はぽつりと呟いた。
「アンタ、ちっちゃいんだな」
思いのよらない言葉に、真奈美は真っ赤になった。どんどん速くなる心臓の鼓動を、懸命にこらえながら、真奈美は口を開いた。
「………そ、んなこと、ないです」
懸命に、けれどもうまく云えなかった言葉はそれでも加賀美に届いたらしい。加賀美が、真奈美の目を見た。そして一気に状況だのに気付いたらしく、目が丸くなった。
「え、―――うわっ!」
あわてて真奈美を突き飛ばすように離れ、壁にもたれるようにして、胸に手をおさえる。
「加賀美先生、大丈夫ですかっ!? まさか、私を受け止めた時、どこか打ったんじゃないですかっ!?」
――ちょっと早い時間だけど、保健室は開いてるかしら?
そんなことを考えながら、真奈美は加賀美に駆け寄った。
「うわ、近付くんじゃねえ!」
血相変えて、身を引こうとするのに、真奈美は距離を縮めるのをやめることなく強く云い募る。
「近付かないと、怪我ないか、見れないですよ!」
加賀美は観念した様子で云った。
「う。…………てか、大丈夫だから。アンタ受け止めたくらいで、怪我なんてしねえよ」
真奈美はほうっと息をついた。
「よ、よかった…………あ、でも加賀美先生、苦しそうですけど、それは大丈夫ですか?」
加賀美はぎくりとした表情を見せるが、頷く。
「ああ、大丈夫だ」
真奈美は安堵して、そして加賀美とぶつかりそうになるまでの経緯を思い出し、ぺこり、と頭を下げた。
「本当にすみませんでした。曲がり角は減速! を次からは守ります」
そう云って、加賀美の横をすり抜けようとした。
「おい、ちょっと待て」
強い口調に真奈美は足を止めて、加賀美を見る。そこには加賀美の心配そうな表情があった。
「アンタは、どこもぶつけてないか? ――痛いところ、ないか?」
思いもよらない言葉に、真奈美は目を丸くする。しかし微笑んだ。
――この人は、そういう人。
意外に照れ屋で、そしてとても優しい。
「はい、大丈夫です。加賀美先生がしっかり私を受け止めてくださったんで」
感謝の気持ちを込めて、けれども先ほど密着したがっちりした身体を思い出し、少し恥ずかしくなりながらも云うと、真奈美の言葉が終わる頃には加賀美の顔は真っ赤になっていた。
「ばっ………違ぇぞ」
今は照れ隠しとわかる言葉に微笑んで、それから真奈美はあることに気付いた。
「加賀美先生こそ、どこかぶつけてないですか? あ、手、すりむいちゃってますね」
その手を取って、すりむけている箇所をよく見ようとする。
「うわっ、触るな!」
触れた瞬間、加賀美はあわてたように、真奈美の手を振り払う。擦り傷は見た目以上に痛かったり、治りが遅かったりする。
「………そんなに、痛いんですか?」
――上條先生に診てもらった方がいいかしら?
心配する真奈美に、加賀美はハッとなにかに気付いたような表情をして、あわてたように云った。
「ち、違う! そうじゃなくて」
そういえば、と真奈美は思い返す。
加賀美は距離が近付いたと思っても、真奈美に触れられるのを拒んでいる節がある。GTRは皆紳士で親しくなったからといって、不用意に触れたりすることはないのだが、加賀美だけは接触に関しては前と変わらない気がする。
あわてたような加賀美の言葉は真奈美の耳に入っていなかった。ぼそり、と呟くように云う。
「………加賀美先生は、私に触れられるの、お好きじゃないんですよね………」
時折、ニアミスのように触れてしまう時の過剰なまでに嫌がっている様子を思い出す。その時の小さな棘に刺さったみたいに気持ちが痛かった。それがよみがえってくる。今までの分が一気だったから、涙がにじみそうな感覚にとらわれる。
「へ?」
気の抜けたような加賀美の声がして、そこでようやく真奈美が相手がいることに気付いた。けれども胸が痛くて、それをフォローする気はなかった。
だけども唯一現実に返って、スーツのポケットから絆創膏を取り出すと、加賀美に触れないように差し出した。
「すみません。加賀美先生によくしていただいているのに、恩を仇で返してますね、私。これ、絆創膏です。すり傷って意外に痛いので貼っておいてください」
加賀美がそれを受け取るのを見ると、真奈美は一礼して、加賀美の横をすり抜けようとする。
「――ま、待て!」
「えっ?」
ぐいと腕をつかまれるのに、真奈美は驚いた。
「オレから触るなら、平気だ」
加賀美の言葉に目を丸くする。それから微笑んだ。
――多分それが私に出来ること。加賀美先生のために、私が。
自然に言葉が出た。
「それなら、加賀美先生が私に触れてください」
「―――いっ?」
加賀美の目が大きく見開かれる。
真奈美は微笑んだ。
そう大切なことは、それを優先すれば他は些細なことになる。少し自信はないが、ちょっとだけ意地悪して先手を打とうと真奈美は口を開く。否定されたらものすごく落ち込みそうな、危険な賭け。
「加賀美先生が私を嫌わないでいるなら、それでいいです。触られるのが嫌なら、出来るだけ触らないようにします。その代わり、加賀美先生は、私に普通に触れてくださいね」
「あ、…………ああ、………」
歯切れは非常に悪いが、加賀美が肯定の返事をくれた。それだけで充分だ。
――それに、…………加賀美先生、顔真っ赤…………よかった、私嫌われてるわけじゃなかったんだ。
こちらに決して目を合わせない加賀美の表情を見つめ、真奈美はそっと安堵の息をつく。
「……………どんなベタベタに触ってもいいのかよ。知らねえぞ、後悔しても」
ぽそっとした呟きは早く、真奈美の耳にはかなり幻聴なレベルでしか聞こえなかった。
「え? なにか云いましたか?」
「いや、なにも云ってねえよ――先を急ぐんだろ、行きなよ」
ぽん、と軽く頭に手を置かれて撫でられる。子供にするような仕草だが、真奈美は加賀美に触ってもらえたことがうれしかった。
「はい。それでは加賀美先生、またあとで」
加賀美の手が離れると、真奈美はぺこりと頭を下げて、駆け足で彼のそばを離れていった。
「一番触れたいのは君だ、と云えないあたりが加賀美くんですね」
加賀美と真奈美に見えないように、呟くのは桐丘だ。それに大きく頷くのは天童だ。
「それなのに、直球でその弱い所を逆にえぐるあたりはさすがクラスZの担任」
「…………確かに。しかし加賀美くんにも困ったものですね」
溜息をつく桐丘に、天童はなにか考え込みそれから云う。
「――いや、あながち私たちには都合がいいかもしれません」
天童の言葉に桐丘も思案して、それから頷いた。
「そうですね。加賀美くんにはもう少しジタバタしてもらいましょうか」
そんな2人のやりとりには気付かない加賀美は真奈美の姿が見えないところまで来ると、真奈美の頭に触れた手をじっと見つめる。
――小せえんだよな、思ったより。
無造作を装って、頭に触れた時に、その手の高さにも、頭の小ささにも指に絡む髪の毛のすべてにドキドキした。
あまり触れる機会がない女性だが、それが意識している相手だとこうも自分が自分でなくなるようなものになってしまうのか。
わずかの接触なのに、心臓が壊れそうである。
――オレには、ベタベタ触るのは、まだ無理だ。
はあ、と大きくため息をついて、加賀美はもともとの目的地の職員室に向かったのだった。
そして今日一日、身体についた真奈美の匂いに惑わされるのだが、それは甘くかすかで、加賀美はどきまぎしながらも匂いを落とすことは出来ないのであった。
end
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