夜の彷徨
自分がなにを求めているのか、それはわからない。
そういう時、頭の中に音楽が流れる。
漫画やゲームが好きなのに、教える教科として音楽を選んだのが妙に納得がいく瞬間がこの時だ。
もどかしくてどうしようもなくて、なにかよくわからない衝動に身を任せたい時がある。
――いや、そうしなければ、このなにかを求める気持ちが、おさまらない。
加賀美は、ふう、と大きくため息をついて、外に出た。
外は障害物なしに、空が広がっていた。暗がりでもわかるくらいのただ空間が広がる光景に、こういう状態の加賀美は刹那目を奪われる。この最上階のかりそめの家はかなりのお気に入りだ。
――そうだ、前は、こんな風にしなかった…………。
どうしていいのかわからないけれど、なにもすることが出来ずに部屋の中で漫然としていた。それが音楽が流れるようになったのはここに暮らすようになってからだ。
初めは恐る恐る頭の中の音楽を声に出してみると、少し解消された。それ以降、少し大胆になって、真夜中というほどでない時間は思い切り声を張り上げて歌う。
今日も、そういう日だった。
仕事を終えて、自宅に戻って、日常的にすることをしながら、気持ちは鬱々としていた。そうして頭の中に流れる音楽が聞こえてきて、加賀美は時計を確認する。教師たちは皆、もう家に帰った時間だ。
加賀美は立ち上がった。
その音は、真奈美をゆるり、と優しく揺さぶって、眠りの森から脱出させた。
「………え?」
ぼんやりとあたりを見回すと室内が暗い。自宅ではないのはわかるが、ここはどこだろう、と考えている間に、夜目がきいてきて、視界が見慣れた景色の輪郭を映す。その時、真奈美の頭の血の気が引けた。
――えっ、ここ、学校!
いつの間にか、眠っていたらしい。
新卒でいきなり問題クラスを担当することになった真奈美の勤務時間はとても規則内にはおさまらず、そして家でも補習のプリントなどを作成していたりするので万年寝不足だ。割と体力はある方だと思うが、それでも人には限界がある。
職員室や別の準備室で眠りこけるのは一度や二度ではない。けれども、ありがたいことに毎回誰かが起こしてくれていた。でも今日は誰も真奈美に気付くことはなかったらしい。
――あー、どうしよう………。
とはいっても、仕方ないので帰るだけだ。
小さくため息をついて、立ち上がった時、真奈美の耳に音が飛び込んできた。
――まだ、誰か、いるの?
今暗がりの中だから、少し怖くなる。しかし聞いていると、そういえば覚醒させてくれたのはこの歌声だったことを思い出す。
激しい中に、もどかしい切ないものを感じて、胸が痛くなった。
――誰だろう?
恐れは、いつの間にか好奇心になった。
どこか聞き覚えがある声なのもあって、生徒の誰かであれば注意しなければという気持ちにもなる。真奈美は片付けをそのままに、部屋を出て、歌声を辿ることにした。
歌声の大きさで右往左往し、辿り着いたのは屋上だった。
――うん、ここかな。
確かめて、そっと屋上の扉を開ける。それは意外にもするりと静かに開いた。
屋上という場所もあり、そこにいる人物を刺激しないように真奈美は慎重に屋上に出た。少し移動して、そこに歌声の持ち主を見つけて息を飲んだ。
――加賀美、先生…………!
声に聴き覚えがあったはずである。
加賀美は真奈美がここに辿り着くまでずっと歌っていた。
彼の授業を見たことがある。それはとても個性的だった。加賀美はロック調で歌いながらの授業をしていた。その時に歌声を聴いていたのだが、今の歌はその時のものとまるで違った。しかし真奈美も聞いたことがない歌だ。そして歌詞がない。それでも心臓に直接来る響きを持っていた。
――胸が、締めつけられる…………!
真奈美は無意識で胸をおさえる。加賀美はどんな気持ちでこの歌を歌っているのだろう。
どこか遠くを見つめて歌う姿に、真奈美は魅せられていた。生徒でなかったから、注意をする必要もないので、そのまま加賀美の歌声に聞き入っていた。
どのくらい、歌っていただろうか。
そもそも歌なのか、加賀美は自信がない。衝動のままに思い浮かんだ旋律を並べているだけで、作曲の才はないとわかっているので、あとで譜面に起こすこともない。もともと発散するためのものだし、毎回、その旋律は違う。
心の中にたまっていたもやもやは少しずつなくなっていって、霧散した。
加賀美はほっとしたように息をつき、天を仰いだ。
――空が広いな、ここは…………。
こういう気持ちの時に、なぜかその大きさがとても落ち着く。気の済むまで歌い終えると、空を眺めて、そして部屋に戻るのだ。
しかし今日は、その空を見る時間を短くした。
後にして考えれば、なにかを感じたのかもしれないが、その時の加賀美はあくまで無意識に空を見るのをやめて、部屋に戻るべく、方向を転換した。
「―――――っ!」
なにかが、普段とは違うなにかが、加賀美の視界に入った。
どきり、と心臓が高鳴る。学校に暮らしているとはいえ、怪談的な話は不得手である。しかし校内は自分独りだし、そういうリスクがあると知って選んだ生活なのだ。というより、そのリスク排除も加賀美の役目である。
――生徒かもしれないし、な。
それこそ、ここに暮らす加賀美の最大の役目の見せ所だ。あえて人以外でないと判断し、加賀美は視線を据える。薄暗がりの中、懸命にそれがなにか確かめようとする。
ぼんやりと加賀美の中でそれは形作られていく。その輪郭に見覚えがあると気付いた時、ひらめきのように加賀美の脳裏をある人物が重なる。そして、それは現実となった。
それは、加賀美の予想をはるか超えるものだった。思わず指をさして、あわてる。
「えっ………! おまえ、なんで残って………、いや、なんでこんなとこ、いるんだ!?」
最後に、該当人物の名を呼ぶと、そこで初めて、その影が反応した。
「あっ、加賀美先生…………歌、素敵でした!」
我に返ったみたいな様子で、けれども加賀美に駆け寄って、興奮したように云う。
加賀美は思いもよらない時間に、思いもよらない人物に、歌を歌っているところを見られて、混乱しきっていた。
「アンタ、なんで…………! つか、こんな時間になにしてんだ!?」
本当は歌を聞かれるのも、恥ずかしい。普段の授業なども歌ならいいのだが、こういう感情に任せた旋律を聞かせてしまったのは、特に彼女に対しては、聞かれるのはのたうちまわるほどの失態だ。
しかし、それ以上に部屋を出た時間を覚えている。そこからおおよそ経った時間もわかる加賀美としては、一番気にかかるのはそこだ。
「あの、…居眠りをしちゃったみたいです…………目が覚めたら、歌が聞こえてきたから、生徒かなって思って……」
興奮した様子から一転、困った表情で真奈美は笑った。そののんきな様子に、腹が立つ。
「オレがここに住んでる限り、生徒にんなことさせねえよ」
つい、冷たい云い方になってしまう。
「そうですよね。よく考えればそうでした」
加賀美は冷たく当たったのに、やわらかく返され、自己嫌悪になり、黙り込んだ。それに合わせたわけではないだろうが、真奈美はどうしてだが口を開かない。
――なんとなく、落ち着く………。
気まずかったが、不思議とこのひとときは嫌とは思わなかった。
それはあまり長い時間ではなかった。破ったのは真奈美だ。
「………ここは、ステージなんですね」
感嘆するような言葉に、加賀美は顔を上げて真奈美を見る。彼女はすでにもう加賀美を見ていて、目が合うと微笑む。加賀美は惹きこまれるようにその笑顔を見ていた。
目をそらしたのは、同時くらいだった。加賀美が外したタイミングで、真奈美は視線を転じた。
「素敵な、ステージです……………ここは、加賀美先生にとって、特別な場所なんですね」
横顔しか見えないが、真奈美は柔らかく微笑んでいる。それを見つめる加賀美の心に、真奈美の声が、心に静かに降っていく。
――そんなに、いいもんじゃねえよ。
心の中で思う。
このステージは、自分が好調の時に使用されることはない。気持ちがふさいだ時にだけ開かれるステージだが、真奈美にかかれば、それも素敵なものになってしまうのか。それに加賀美は少しおかしくなって、笑みを漏らした。
「んな、たいそうなもんじゃねーよ」
「そうなんですか。授業見させていただいた時も思ったんですけど、加賀美先生の歌、私、好きです」
好き、というフレーズに思わず反応して、あくまで自分が歌う『歌』なのだと思い直す。しかし冷静さを取り戻しても、ありがとう、とは素直に云えない。
ゆるやかに時間が流れていく。今度の沈黙は、加賀美も気まずい気持ちが少なくて、とても居心地が良かった。
やわらかく流れる初夏の風に、目をつむってそして真奈美を見つめて、加賀美は本当に我に返った。
「おい、アンタ! こんな時間までいていいのかよ!」
そして2人はそれぞれに時計を見て、あわてる。
「え、はっ! うわー、こんな時間ですか! 急いで帰らないと!」
「つか、もうこんなに遅いんだぞ! 送る!」
「えっ、――あの、それは加賀美先生に申し訳ないです…………!」
両手を胸の前で振りながら、真奈美は申し訳ないというふうに首を横に振る。
それにイライラしたのは確かだが、その後に云った言葉はあまりにも加賀美らしくない言葉だった。
「つか、着替えあんなら、あの部屋、泊めてやる。オレは別のとこで寝てくるから。他んとこで寝るよりは居心地は、……悪くないと思うぜ」
云い終えると、内容のすごさに気付いて、加賀美は頬に身体中の血が移りそうになるのを感じる。ちらちらと真奈美をうかがいつつも、少し目をそらした。
加賀美の生涯でもまったく思いもよらない発言は、真奈美をやはり戸惑わせてしまったようだ。
「…………いたずらっ子がいるので、着替えは常備してますけど………加賀美先生のお部屋に泊まるのは申し訳ないです」
「そうか。でも、アンタも疲れてんだろ? 帰るより、ここで寝た方がいい」
月明かりのもと、真奈美の顔が少し見えるようになって、加賀美はずっと気になっていたことを指摘する。どのくらい眠っていたかわからないが、連日問題児を追いかけて、おそらく家に帰ってもなにかしらしていたのだろう。しかも不自然な姿勢での睡眠では彼女のバイタリティをもってしてもまだ疲労が色濃く出ている。
「…………あの、でも、」
加賀美は懸命に恥ずかしさを戦いながら、真奈美の頬に触れる。普段なら絶対にしないが、真奈美の頼りない輪郭をなぞってその存在を確認するイメージだった。
――もともと細かったけど、最近はますます細い。
初めよりは問題児たちもついていっているが、やはり新任一年目で荷が勝ち過ぎている。
「明日出れば、明後日は土曜だ。休みでもやることはあるだろうが、あと一日頑張れば、週末だ。だから、今日はそのあと一日のために休息を取った方がいい」
真奈美はまっすぐに加賀美を見つめる。
少しの沈黙の後、真奈美が漏らしたのは、小さなため息に苦笑。
「………加賀美先生には見抜かれちゃったんですね。寝ていたのに、今日はもう帰る体力がないこと………」
云いながら真奈美はバランスを崩した。それを加賀美は抱きとめる。加賀美にかかる重みが真奈美の言葉が真実と告げていた。
「だから、無理すんなって云ったろ?」
「はは、そうですね………加賀美先生のお言葉に甘えていいですか? ここから――一番先生の部屋が近いし………あ、でも」
「ん、なんだ?」
もう体力はほとんど残っていないような気がした。加賀美の身体に自身を預けて、真奈美は
「学校で………独りで眠るの、………ちょっと怖いので、加賀美先生も一緒に寝てください………」
云いながら、かかる真奈美の体重が一気に重みを増した。加賀美は抱きかかえる腕に力を込める。そうしながらも、真奈美が意識を失う前に、途切れ途切れに云った言葉に目を丸くする。
「いっ!?」
声を上げるも、真奈美は目をつむったままだ。
発言にどうしていいのやらわからないが、とりあえず真奈美を抱え直して、自室へと向かう。すぐそばのテラスハウスだ。その戸を、真奈美を抱えながらもなんとか開け、中に入り、加賀美の寝床に寝かしつける。まだ寝る時間ではなかったから、そんなに汚くなかったのが幸いだ。
掛け布団をかけて、真奈美を見る。寝床に入ってすぐに深い眠りについたようだ。そのことにホッとして、そして頭を抱える。
そうでなければ、この部屋を好きに使っていい、とメモを残して、後々怒られつつも保健室で眠ればいい話だった。
――よりによって、なんてバクダン落として、寝ちまったんだー!
加賀美は真奈美のそばで、大きくため息をつく。一通り整えてはいるが、やはり桐丘の家のきっちりさには遠く及ばないので、少し片付けをする。ある意味あまりプライベートがない所だから、前よりは綺麗にしているつもりだ。普段はめんどくさいそれも、あっけないほどすぐに終わってしまって、加賀美はまた真奈美の元に戻る。こういうシチュエーションは加賀美にはとても不得手なのだが、真奈美が云った「少し怖い」という言葉が気にかかってしまったのだ。
月明かりの中、すやすや眠る真奈美の顔を見つめる。
怖いと云ったけど、どうやら大丈夫なようだ。
無邪気なその寝顔を見ていると、普段どうしてあんなにバイタリティがあふれているのかわからなくなる。
――オレでも、手こずるだろうに………。
生徒一人一人に関わるのはいい。だがクラスまとめてとなると手にあまりそうだ。
人身御供的に連れて来られて、しかも新任の割にはきちんとこなしている。それでも他のクラスの担任のようにはいかなくて目立ってしまう。それを不甲斐ないと思っているようだが、加賀美からすればあの程度で済んでいることに感心してしまう。
この人なら大丈夫、と思い始めてから加賀美もこっそりけれど積極的に手を貸してきた。
――すごいよな………。
改めて感嘆する。
そんなことを考えながら、加賀美は時を忘れて、真奈美の寝顔を見入っていた。
あくびが出て、時計を見て、時間の経過にかなり驚く。
――オレもそろそろ寝るかな。
天童や桐丘がここで睡眠を取ることがあるので、客用布団はそろっている。限りなく真奈美と離れた場所のスペースにそれを敷けばいいかな、と考えて、加賀美は立ち上がろうとした。
くん、と服が引っ張られて、加賀美はそこに目をやって、目を丸くする。
――そ、袖がっ! つか、いつの間に!?
しかし考えれば、時間の経過とぼんやりと加賀美が真奈美を見ていたことを考えればあまり不思議ではなかった。加賀美がその体勢で呆然としていると、真奈美の眉が苦しげに寄った。あわてて先ほどまでの姿勢を取ると、不思議なことに真奈美は表情を和らげる。
加賀美がゆっくりきちんと元の体勢に戻って、大きくため息をつく。
――オレは、どうすればいいんだー!?
思うが、もう動くこともままならない。
今は初夏、このまま寝ても風邪は引かないだろう。それに真奈美ほどの疲労はためていないから、この姿勢で眠っても、明日なんとか乗り切れるだろう。
――でも、その前に!
「手、出したりはしねぇからな」
ぼそっと、小さくつぶやく。
本人がきいていなくても、そこはきっちりしておきたい。
宣言するように云うと、心が落ち着いた。これは真奈美に、というより、自分への戒めだ。
そうすると、なぜか音がまた自分の中に湧いてくる。それは先ほどと違った、優しい旋律だ。
浮かんできた時に、そっと本能のままに、音にしてしまった。紡ぐ旋律に、真奈美を起こしていないかと彼女を見れば、さっきよりずっと安らかな顔をしていた。
――オレの声か、オレの歌が好きっつったの本当なのな………。
こんなふうに無意識下で知るとは思わなかった。
本当に彼女はまっすぐで素直だ、改めて加賀美は思う。
たまに、本当にたまに、自分の中に湧きあがる優しい旋律を子守唄のように真奈美に聞かせながら、加賀美はずっと眠れずにいた。それは、少し修行のように厳しいけれど、優しい時間だった。
end
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