Call Me My Name

　彼には、瑠璃弥という本人を表すみたいに綺麗な名前がついている。
　それに気付いたのは、不覚にも私が彼といわゆる特別な関係になるちょっと前のことだった。
　名前もそうだけど、私の天童先生への想いに気付いたのも、同じくらいの頃だ。その直前までは、風変わりだけどGTRの中で一番頼りにしていた。やはりGTRのリーダーなんだなって思うほどに、天童先生は親身に、時には厳しく相談に乗ってくれた。
　その優しく温かい関係を壊したのは、天童先生だった。

「貴女を愛しています」
　放課後、最近は雑談もまじえられるようになっていた相談を終えて、そろそろ帰ろうかという時間、夕日に照らされて、いつも以上に儚い天童先生の美しさに少し見とれていた私は、逆光でわからなかった天童先生の視線がまっすぐに私を捕らえているのに気付いた。
　自分でも賛辞してやまないほどに整った天童先生の顔に見つめられるのに、私はまだ慣れていない。
　確かに綺麗な人だと思っていたけれど、先生に教師として認められてから、近付いた距離が私にその感覚をもたらした。時折、じっと凝視されるのが一番恥ずかしい。
　おかしな言動も、天童先生が教えている宗教学によく聞けば沿われている。どこか神がかっている人だと思っていて、それは容姿にも反映されているのだと気付いた時、天童先生のまっすぐで真摯な視線を受け止めるのが少し恥ずかしくなった。
　――ああ、綺麗な人…………。
　この人の瞳に移る私は、どんな風に見えているのだろう。
　ふと考えてしまう。特に今日は瞳に熱がこもっているような気がする。
　――なんだろう？　ドキドキしてきた…………。
　今は空き教室に二人きり。いつも、相談事をする時に使う教室は、どこか秘め事めいていると気付いて、私の心臓の鼓動は一気に跳ねる。
　――ああ、今日はどうして………!
　表面上は平静を装うのに必死な私に、天童先生は微笑んだように見えた。そして口を開いて云った言葉が、告白だった。
　一瞬、私はなにを云われたのかわからなかった。
　だって、あの天童先生。
　私は美しい、が口癖の先生からまさか愛の言葉が告げられて、それが天童先生自身に向けられたものでないなんて、思いもよらなかった。
　意味を吟味して、私はそれから首を傾げた。
　――自分賛辞、じゃない?　え、ということは…………私に向けられたもの？
　そうだと思った瞬間、私の頬は熱くなった。おそらく、真っ赤になっているだろう。ああ、夕陽で隠れてくれますように!
　しかしその祈りは神の前では無効だったらしい。
「どうしました、顔が赤いですよ」
　やわらかい口調は讃美歌のよう。私は引き込まれそうになる。だけどその言葉の内容に、私の心は乱される。
「〜〜〜〜〜っ!!」
　かつ、と天童先生が私の方に歩み寄る。優雅で流れるような所作に、けれど私はそちらを見れない。身体を強張らせて、ぎゅっと目を閉じる。
「答えは急ぎません。すみません、私の気持ちが急ぎ過ぎた」
　その言葉は諭すような響きで、私は恐る恐る目を開ける。目を閉じる前よりも距離を縮めた天童先生が、珍しく困ったような表情で私を見ていた。マイペースの天童先生の困った表情を見たことがないわけではない。だけど、今まで見たどの困った表情より、人間らしくて、私は一瞬で魅せられた。
　どきり、と私の鼓動が跳ねる。
　――こんな天童先生、初めて………。
　いつも堂々としている彼がこんな風に、困惑しつつも笑んでいるのは、驚きだった。
　――それも、私への、…告白に、私が……混乱したことに対して、だよね………？
　胸からなにかあたたかいものがこみ上げてくる。ほんわりと、その気持ちは嬉しい、だと感じる。
　それでもまだ動けないで固まっている私に、天童先生は困った色を消して、微笑んでくれた。私たちに歩み寄った時から、天童先生が向けてくれる神様のように慈悲深く優しいほほ笑みだ。
「――あなたの気持ちを急かすわけではないですが、私たちはもう少し仲良くなって見るべきです。休みの日にふたりでどこかへ出かけたりして、もう少しお互いを知りましょう。答えはそれからでもいいですよ」
　その提案に、私は一も二もなく頷いた。
　初めて、天童先生を異性として意識して、その時にはもう私の気持ちは動いていた。
　あの人間らしい表情で、私を気遣ってくれた時、私は恋に落ちてしまったのだ。

　２人で出掛けるようになってしばらくして、私は天童先生の告白に答えを出した。２人でいるようになって、告白の時に感じた気持ちはどんどん強くなっていって、そしてやはり二人でいる時間を増やして触れる天童先生は素敵だったから。
　それを云った時、天童先生はそれはうれしそうに笑って、「私のマリア!」と私を抱きしめて叫んだ。
　――そういえば、時々、私のことをマリアって、呼んでた……。
　天童先生は、私を教師として認めてくれた時から、「先生」とは呼んでくれたけれど、名字でも名前でも呼んでくれたことはない。初めはどきっとしたけれど、自分のことは指していないだろうと思っていた。
　だけど、天童先生は私をマリアと呼んだ。
　それは特別な名前だとすぐにわかった。宗教学を教える天童先生にとって、特別でないはずがない。
　私はうれしかった。
　それから二人の時は、私のことを「マリア」と呼ぶようになった。私の方は変わらず、天童先生だ。その時には天童先生の下の名前もきちんと知っていたけれど、呼ぶのはためらわれた。
　けれども、どんどん恋人として時間を共有していると、マリア、と呼ばれるのが嫌になってくる――そう、私自身を見られていないような気がしてくるのだ。
　天童先生は私を通して、違うものを見ているような錯覚が起きるのだ。
　マリアと真奈美。
　よく似ているけれど、やはり違うのだ。
　人の欲とは恐ろしい。
　言動はおかしいし、行動は人間ぽくないし、容姿はものすごくきれいな天童先生のそばにいていいのだろうか、と思ってしまうほど、私という人間は醜い。

「さぁ、帰りましょう。私のマリア。そろそろ日が暮れてしまいます」
　天童先生の言葉に、私はハッとしたように顔を上げる。
　放課後。
　補習などない日は、天童先生と教育方針について教わっている。天童先生との距離が縮まった頃からのことで、恋人同士になってからも変わらないし、今は相談というよりは一日の出来事を聞いてもらうような感じだ。
　恋人同士になって変わったのは、その雑談めいたことが終わると天童先生が今のように日が暮れていない早い時間でも私を家まで送り届けてくれることだ。
　――またか。
　天童先生は今日も私のことを「マリア」か「貴女」としか呼ばなかった。それに今まで疑問を持っていなかったけれど、一度引っかかってしまうと気になって仕方がない。
「あ、はい」
　私は机の上に広げたノートを閉じて、立ち上がる。天童先生はすでに片付けて、扉のところで私に視線を向けて、待ってくれている。こういう時、とてもうれしい。
　２人で職員室までの道を歩く。今日は天気が良く、沈もうとする陽が最後の光を放っていて、２人で歩く廊下にその光が差し込んでくる。
「綺麗な夕焼けですね、私のマリア」
　そちらの方に目を向ける天童先生も、とてもきれいだ。目を細めて、光の中の天童先生を探しながら、ふと私は呟くように云ってしまった。
「…………天童先生は、私の名前をご存じですか」
　それは小さな声だった。
　けれどそれは発した瞬間、静かな廊下に響き、天童先生に伝わり、云った私を驚かせる。思わず立ち止まる。
　――あ……、とうとう云っちゃった………………!
　あわてて口をおさえるが、もう遅い。それに、と私は考える。どのみち耐えられなくなって、云ってしまっただろう。それが早くなっただけのことだ。私はきゅっとくちびるをかみしめて、強い気持ちで天童先生を見据える。
「もちろん、知っていますよ」
　廊下に差し込んでくる太陽の光が天童先生の表情を隠す。もしかしなくても、私の表情も天童先生から見えないのかもしれない。
　天童先生が柔らかい綺麗な声で私の名前をフルネームで呼んだ。
　呼ばれた瞬間、電流が身体を走り抜けた気がした。そして私は胸がつまるような息苦しさを覚える。
　――すごい破壊力………！
　けれども私の名前を覚えていて、だけど呼んでくれないことはやはり不満だ。
「………でも、呼んでくれたことは今が初めてですよね。――どうして、私の名前は呼ばれないんでしょう」
「―――――っ！」
　天童先生が身じろいだ。そして少しして、一歩、天童先生が私に近付いてくる。互いに足を止めた状態に空いた少しの距離がかなり縮んだ。
　私は魅せられたように天童先生から目が離せない。
　先生の一歩は予想以上に私たちの距離を縮めさせた。まだ威力を放っている太陽の光は、けれども今度は天童先生の表情を隠さない。はっきりと見える。
「私はずっと、私のマリア足りうる人を探していました。物心ついた時からマリアという名は私にとって特別なものなのです。ようやく、マリア足りうる人を見つけて、私は少し浮かれてしまったのかもしれませんね」
　だんだん恥ずかしくなってくる。天童先生にそんな事情があったなんて思わなかったから余計に。そのマリアが自分であるのを誇らしいというよりも、私でいいのか、という気持ちが強い。
しかしそこまで云われると「マリアと呼ばないでくれ」とは云いづらい。
ようやく見えた天童先生の表情は、私に対して少し申し訳なく思っているような感じがする。私は云った。
「そんな…、天童先生………！」
　それに天童先生は表情を一変させた。
「貴女に対して少し申し訳ないと思うのですが、でも、貴女は私を責められません。なぜなら、貴女も恋人である私のことを先生としか呼ばないではないですか」
「〜〜〜〜〜っ！」
　確かにそうだった。
　私は天童先生を下の名前では呼ばない。いや、呼べない。
　天童先生のファーストネームはきちんと認識しているけれども、言葉にすると恥ずかしい。
　一回、恋人になった前後くらいに、息するみたいな小さな音量で、下の名前を呼んでみたことがある。
　云った瞬間、私は独りなのに真っ赤になって、それから反射的に周囲を見回してしまった。学校では時々、つい「天童先生」と呼んでしまうと現れることがかなりの確率で起こるので、つい、だ。
　――て、天童先生が現れたらどうしよう………!
　けれども先生は現れなかった。校内ならまだしも、それは当たり前だと私は少し残念な気持ちだった。
　そのことを思い出した。私の頬はさらに赤くなる。
　天童先生の瞳が少し揺れた気がした。そして口に手を当てて、なにか考えるような仕草をする。
「ふむ……呼んでみようと思ったことはあるみたいですね。安心しました。私の名前も知らないでいられたらどうしようかと思いました」
　そもそも私が、私の名前を知ってるか、と聞いたのだ。知らないはずはない。そのことに少しむくれながら、天童先生を軽く睨みつけて云い返した。
「それくらい、知ってます……」
　天童先生はうれしそうに微笑んだ。そして私をひっくり返らせる言葉をさらりと云った。
「では呼んでみてください、真奈美」
「えっ…………!」
　なんてことを云い出すのだろう、この人は。
　今まで私の下の名前なんて呼んだことないくせに、今日は２回も読んで惑わして、そして私に先生の名前を呼ばせるなんて。
　――だけど、この人が、私の恋人………。
　優しいけれど、厳しい。そうだ、この人はそういう人だった。
　私は仕方ない、と微笑んで、息を吸った。
　まだ先生を見ながら呼ぶことは難しい。だけど、私の名前を呼んでくれた時、とてもうれしかった。先生も私が名前を呼ぶことで喜んでくれたらいい。
　口の中で何度も呼んでみて、音にしたのは一回だけの名前を呼ぶために、私は口を開いた。
「る、りゅりや、さんっ……………!」
　――失敗した!
　云った瞬間、いつの間にか緊張でからからになった喉が思い切り舌をかませ、一世一代の告白のように云おうと思った愛しい人の名前をうまく呼ばせてくれなかった。
　私は真っ赤になって、口元を押さえた。
「す、すみません！」
　謝罪の言葉はうまく云えたのに、それがさっきはどうしてあんな風に噛んでしまったのか。
　―――あああ、もう、私ってば!
「焦ることはないですよ、私のマリア」
　その言葉に、恐る恐る天童先生を見ると、あたたかいまなざしで私を見ていた。そのことだけが私をほっとさせる。
「――しかし、華麗なる容姿だけではなく、名前までも貴女を惑わせてしまうなんて、私も相当に罪深い!　―――ハッ!」
　ちゃきーん、とジャケットから金色の光がこぼれる。天童先生お得意のジャケットプレイだ。
　その一連の出来事がすべてゼロに戻ってしまうかのようなジャケットプレイに、私は脱力しつつ、笑みをこぼした。
「ゆっくりでいいですよ、私のマリア」
　そしてそっと私の頬に触れて「笑ってくれて少しホッとしました」と継いだ。本当に負けっぱなしだ。年の差があるとはいえ、こうも転がされてばかりいるのは悔しい。
「もう、またマリアに戻ってます…………！」
　むっとした私の言葉に、天童先生が微笑んで、云った。
「けれども下の名前で呼ぶと、貴女が困るでしょう?　これはとっておきにすることに決めました」
「―――――っ！！」
　確かに困る。
　私の名前を呼ぶ天童先生の声はどこか甘味を帯びていて、それに元来に綺麗な声音と、私の特別な人というのが加わって、破壊力抜群だった。
「だから普段は貴女のことをマリアと呼びますよ」
　念押しされた。もうこれは私が反論できないレベルの確認だ。
「……わ、わかりました」
　お返しに、「瑠璃弥さん」と呼んでみたいものだが、先ほど噛んでしまったのもあって、それはやめた。
「愛してますよ」
　云って、天童先生は私の手を取り、その甲に口づけた。
　甘い囁きに、触れられた手から、熱が増していく。
「さぁ、帰りましょう。ここで続きがしたくなっても、貴女は恥ずかしがって嫌がるでしょうから」
　陶然とした私にかけられた言葉のその内容に私は目を剥いた。
「て、天童先生…………!」
　天童先生は微笑んで、先ほど口づけた私の手を握り直して、歩き出す。
　私は真っ赤になりながら天童先生の歩くままに身を任す。
そうしていつかこの人を困らせてやる、と決意を固めたのだった。
　end