【Sky Walker】


 下を見てはいけない。
 月森は心の中で自分に云い聞かせた。
 ――ここはとても不思議な空間だ。
 現実なのに、現実でないような、いや、自分自身が現実だと思いたくないだけかもしれない。
 月森がいるのは境目だった。一歩踏み出せば、現実と思いたくない場所に出てしまう。
 ひょおおっと風が吹いた。
「っ!」
 下から巻き上がる風に、月森は身を強張らせる。
「どうした?」
 不思議そうに問う声に、顔を上げれば、自分の身長を横にしたくらい先にいる人物がこちらを見ている。問うた声もだが、その表情は遠目にも、月森をからかう意思があった。
 彼はもう、踏み出している。
 ――そう、そして俺をこの場所へ誘ったのも、理事だ………。
 新年、この日にこの場所に来たいと云われて、月森は吉羅の意志を尊重した。
 どういう場所か、いまいちわからなかった。特に調べもしないで、そう云うと、吉羅は「観光地にしようとして失敗した場所なんだよ」と皮肉気に笑って教えてくれた。
 実際に人はいなかった。今も、この場所には2人きりだ。
 吉羅と2人というシチュエーションに少しは慣れたつもりだったのに、緊張するのはこの場所だからだ。
 入った建物の目的の場所は、かなり上に登ってから、建物の外にある。そこは吹き抜けの通路で、海を渡る橋の下に設置されている――つまりはかなり高い場所にその通路はある。しかも、下が見えるようになっているのだ。
 そこに出た時から、月森は足を踏み出せない。高所恐怖症というわけではないのに。
 それなのに渡れないのが、もどかしくなって、わけもなく悔しい気持ちで、月森はくちびるを噛み、そして顔をうつむける。しかしすぐに心を決めて、離れた人物をまっすぐ見つめる。
「――なんでもありません」
 一瞬間を空けて、月森は平静な声を出すのに成功した。
 その瞬間、くせのある髪からわずかにのぞく大人の色気を放つ瞳が悪戯っぽくきらめくのを、月森は見てしまった。
 とても嫌な予感がした。
「ふうん、だったら、こちらへ来てはどうかな」
「――っ!」
 月森は息を飲む。
 その表情を読んでから、彼は云った。
「―――それとも、こっちには、来られないのかな?」
 ――なぜ、足を踏み出せないのか?
 自分でも理由がよくわからない。
 しかし足は、そこで固められてしまったかのように、動かない。
「…………」
 ――あの人は絶対、俺のことを臆病だと思っている…………。
 吉羅のところへ着いて行っていないのだから、確かにそうなのだが、そう思われるのは癪だ。しかし足は上がろうともしない。
 またもうつむいて逡巡する月森に、吉羅は声をかけた。
「そういえば君は、ストックホルム症候群を知っているか」 
「ええ、名前だけは」
 確か、昔実際起こった事件から来ている言葉で、限界状況の中で犯人と人質が心を通わせるという逸話だ。
 ――どうして急にそんなことを?
 不思議に思って、月森は吉羅を見る。月森の視線を受けて、吉羅は言葉を継ぐ。
「ここまでくれば、君もその『限界状況』に近い状態になる――そうすれば、私に情が湧くのではないかな、と」
「〜〜〜〜っ!」
 予想もしなかった言葉に、驚いた。
 頭に来て、月森は吉羅に近づいた。吉羅を間近にしてようやく足を止め、月森は云い放った。
「情なんて――そういうものがあるなら、俺の中にとっくにあります!」
 月森の言葉に少し目を見開いて、それから吉羅は笑って、月森の手を取った。
「…………私もずいぶん、歳を取ったものだ。こういう風にしか確かめる術がないなんて」
「そんなことは…………っ!」
 ないです、と小さく継いで、月森は自分の発言の意味に気付いて、少しうつむく。そして息を飲んだ。
「いじらしい芝居をしてみるものだね。情熱的な君を見られるなんて、滅多にないことだ」
 そうして、月森の肩を抱いた。
「――踏み出して、しまったね」
 囁く吉羅の言葉に、月森は呆れたように、ためいきをついた。
 気がつけば、あれだけ踏み出せなかったところまで来ている。見降ろせば、隙間に海が見える、怖さはない。もともと月森は高いところが苦手ではない。
 開き直るように云った。
「俺はもう、あなたへ踏み出していましたよ」
「知っていたが、こういう場所に来て踏み出せないとは、やはりなにか感じてしまうものでね」
「確かにそうですが・…………追い詰められた状況で、確かめなくてもいいでしょう。――それに、俺は今日が何の日か知って、だからあなたと会う約束を受けたんです」
 本当は云うつもりはなかった。
 理由はどうあれ、自分以上に多忙な吉羅が時間を作ってくれるならそれに合わせたい。そしてそれが今日だということに、月森は少なからず喜んでいた。
 祝いの言葉はどこかで云うつもりだが、この日を会う日に選んでうれしかったことは隠すつもりだったのに。
「ほう」
 吉羅の目が細められる。
 この場所に踏み出してから、なにもかもどうでも良くなった。症候群は別の意味で月森に効果をもたらした。
 月森は吉羅をまっすぐに見つめて云った。
「云い忘れていました。お誕生日、おめでとうございます」
「――誕生日を過ごしたいと思うのは久しぶりだったよ」
 そのまっすぐな言葉に月森の顔は赤らんだ。
「それは………光栄です」
「なんというか、君は気真面目過ぎるね、そういうところも好ましいのだが。もう少し堅苦しさを抜いてくれないかな。だから私は君を何度も試したくなってしまう」
 ――原因は自分なのか………!
 あまりのことに驚いて、けれども月森は少しうれしい。
「気をつけます」
 堅苦しいを抜くのは難しい。なにせ、相手は月森が敬うべき相手だ。
「まあいい」
 少し呆れたように大げさにため息をついてから、吉羅は言葉を重ねる。
「留学の準備で忙しいと思うが、この後はレストランも予約してある。今日は一日付き合ってもらうよ」
「理事こそ…………忙しいのでは?」
 彼の忙しさは尋常ではない。なにせ、水鳥が水面下で足を懸命にかいているのと同じで、仕事でない仕事も多いのだ。
 吉羅はからりと笑った。大人の余裕がにじみ出るのに、月森はどきりとする。
「まあ、たまには休むさ」
 そして、月森の手を握り直して云った。
「さぁ、少し陳腐だが、空の散歩を楽しもうか」
 月森は頷いて、吉羅の手を握りしめた。
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