それはまだ、ひきこもり探偵たちに出会う前の話。

「今日も異常なし」
 決められた地域の夜の巡回の帰り道、滝本が確かめるように云うと、それに深く頷きながら小宮が云った。
「平和ですね」
 その言葉に滝本は鷹揚に頷いた。
「職がなくなっても平和はいいもんだ」
 冗談めいて滝本が云うけれど、本当なのだと最近になってわかってきた。
「……そうですね」
 こんな街のおまわりさんでさえ、想像を絶する血や有り得ない状況を見ることが多い。
『少年課なんてもっとひどいぞ』
 初めてのことに臆した小宮に、滝本は淡々と云う。それで我に返った。
 気が弱いと云われがちだが、こういう状況に決して我を失う自分ではなかった。
 少年課に進みたい――なにかの時に云ったのを滝本は覚えていて、鷹揚な性格にその律義さがアンバランスで、その時小宮はとても驚いた。
 だけど今はこの人のそばで、街のおまわりさんでもいいと思っているけれど。
 その時、自転車が勢い良く通り過ぎていった。
 女性で無点灯。
「ライトつけないと危ないぞー!」
 町内迷惑にならないようなそれでも大きな声で、滝本が自転車に呼びかけると、「すみませーん!」と女性の声とともにライトがつけられた。それしか確認出来ない速さで、自転車はあっという間に2人の視界から消えた。
「点けたな、よし」
 確認して、2人は視線を自転車からそらした(とはいってももう見えないのだが)。
「男だったら、確認、なんだけどな」
 女だからと気を抜いているわけではないけれど、夜はそんな感じだ。
「多いですからね」
 自転車泥棒。
 滝本の云うように、職を失う日は来ないくらいには小さな事件、事故は1日で数えても枚挙がないくらいだ。
 そういうのを完全に防ぐというわけではないけれど、なるべく声をかけるようにしている。
 やわらかく、はともかく自然にはなかなか難しい――そう、さっきの自転車に乗っていた女性に叫んでいた滝本のように、とっさのタイミングも小宮はなかなかつかみづらい。
 だから滝本を小宮はすごいと思う。
『どうやったら、そんな自然に話しかけられるんですか?』
 頑張っても、ぎこちなさが残ってしまって、ここの勤務になってしばらくしてから小宮は思いきって聞いたことがある。
 滝本は目を丸くして、寮の廊下で固まった。だがすぐになにかを考える表情になると、云った。
『大丈夫じゃねえの?』
 意外な言葉に、小宮が目を見開いて、固まりながら目の前の人の真意をはかる。
『えっ、でも………』
『信じねえなら、いいけど。……だいたい、人の関わり方なんて、それぞれじゃねえ?』
 鈍器で殴られたような衝撃に、小宮は倒れ込みそうになる。
『―――――っ!』
 それをなんとかこらえて、泣きそうな気持ちで、滝本を見据える。気持ちはぐちゃぐちゃだった。その視線を意に介さずに、滝本は続ける。
『俺は俺のやり方があって、おまえもおまえのやり方がある。出来てれば、俺はそれで構わねえと思うよ』
 その時には、滝本が思いつきでこういうアドバイスをくれるタイプでないことを知っていたので、混乱しているもののすんなりと受け入れることが出来た。
 そんな小宮の目を見ると、云い聞かせるような表情で、滝本が云った。
『―――……な?』
『………はい』
 小宮が頷いて、滝本はようやくホッとしたように息をついて笑うと、小宮の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
『頑張れ』
 云って、滝本は部屋に戻っていった。
 ――大丈夫、とは云わなかった。
 だけど、少しずつ頑張れば大丈夫、だと小宮はそう思えたのだった。
 そのことを思い出して、小宮はそっと笑う。
 あれからかなり経つけれど、時にはうまくいかないこともあって、それでも前よりは良くなっていると思う。
 ――いつまで、この人といられるかわからないけれど。
 離れる時は「成長したな」と云われるように頑張ろう、と小宮は思う。
 夜の景色はやわらかい。
 何の異常もなかったけれど、それでも自分たちの知らないところでなにかの事件や事故は起こっているのは確かだけれど、そういうのを事前に助けられたら、と願わずにはいられない。
 一瞬の平穏。
 それがとても愛おしい。
 どんなことがあっても、夜も昼も景色は変わらないけれど、表面上とわかっていても、やはりうれしい。
 ――今夜も月がきれいだ。
 冴えた月の光ではないが、雲が時折月にかぶって、それでも雲が薄いのか淡い光を照らしてくれる。
 何も起こらないよう、未然に防げるよう、祈るように思いながら、小宮はそっと微笑む。
「月がきれいですね」
 滝本に話すには、不似合いなことを呟いてしまって、小宮は呟いたことを後悔する。だが滝本は自然に返してくれた。
「ああ、きれいだな。まぶしい時もあるけど、こ−ゆーのも悪くない」
 微笑む、というのがひどく不似合いなのに、それでも小宮にはそれは微笑みに見えた。
 それは新たな感情を、小宮を巻き起こすには充分過ぎるほどに、淡いながらも輝いていた。
 end
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