「もう俺は壊れてしまったんだな」
離婚したばかりの頃、佐伯はぽつりと云った。
かろうじて職務だけは全う出来たが、それ以外の部分はほとんど駄目だったようだ。
「そんなことはないですよ」
津久井は口ではそう云ってみるものの、どうだろう、とどこか冷静な部分で考える。
自分はおそらく佐伯以上に壊れてしまった。ジグソーパズルのかけらのようにばらばらになった自分は、けれども今、佐伯の前で、懸命に彼を慰めている。それがとても不思議だった。
同じ傷を舐め合っている自覚はある。
ただ、あの日々やあの夜を共有しないとわかちあえないものは確実にあって、それは唯一佐伯と共有している。あの夜を境に、2人はもう、元には戻れなかった。
「いいや」
そう云って、佐伯は津久井の言葉を否定するように首を横に振った。しかしそれはどこかやわらかい。
元に戻らないと思うし、実際そうなのだが、佐伯も津久井もその刑事らしからぬ外見は変わらない。佐伯がどう思っているかわからないが、津久井から見る佐伯は同僚とは少し違う印象がある。それは出会った時からそうだったけど。
「ここに入った時に思わなかった……、取り戻そうにも戻せない――そういうものが失われたような気がしてならないよ」
抽象的な物言いに、津久井は納得しながらも思わず問うた。この上司がそれにどんな名前を付けるのか、興味があったからだ。
「それは大事なものだったのですか?」
――たとえば、佐伯と道を違えてしまった女性とか。
それは言葉に出来なかった。
脳裏の変な云い回しに自分の酔いを痛感する。駄目だ。あの夜から、佐伯と飲むと変な安心感に深酒になってしまう。
距離を取るべきだ、と互いにあの夜に蓋をするように思っていて、頻繁には会わない。誘うのはいつも津久井からだ。ぽつりぽつりと近況を話したりしながら、沈黙の間に思うのはあの夜のこと。確認していないが、佐伯もおそらくそうだろう。
「大事だったと思うが、惜しむことも出来なくなった。なくなったものから手を離した時の感慨の方が大切なのかもしれない―――それすらもうわからないが」
その言葉に、彼の絶望を津久井は汲み取った。
思わず手を伸ばし、酔いに任せて、佐伯の手に、自分のそれを重ねるようにしてつかんだ。
手の中の佐伯の肌は、自分のそれと感触も体温も違っていた。しかしなにより驚いたのは、そうしたことで心のどこかが安心したことだった。
佐伯の指が少し動いて、津久井は我に返った。佐伯を見ると、静かなまなざしの中に、疑念が浮かんでいる。
――絶望を知ったからか…………?
ふとそんな風に思うが、そうではないと思い返す。佐伯は初めからこうだった。あの夜からいろんな物事が大きく変わっていっても、2人の風貌がそんなに変わらなかったように、彼もまた根本的には変わらない。
津久井は息をつくように笑った。
「俺が、佐伯さんのものになります」
佐伯の瞳が見開かれて、ますます困惑した様子だ。
「なくなったものの代わりにはならないけど、なにかの役に立つかもしれない」
そう補足する。自分が話しているみたいな感じがしないくらいに、すらすら言葉が出てくる。
佐伯は目元を綻ばせた。
「そうだな」
云って、津久井の手をすり抜けて、佐伯の手は津久井の手を捉える。
「2人なら、心中出来るな」
継がれた言葉のその内容が予想出来なくて、津久井は驚き、それから楽しくて笑った。
「いいですね」
あの夜、命は免れた。
しかしその命の代償に、2人は目に見えてわかるものも、見えないものは多く失っている。
命は大事だと説かれても、その代わりに失うものは大事ではないというのか。そんな風に思うくらいに、なくしていた。
そういうしがらみも含めて、全部捨ててしまえばいい。
佐伯の提案はとても魅力的に感じた。
「決行はそのうち」
どこか秘め事めいた口調でいい、その話題は終わった。
そしてその夜以来、佐伯がそのことを口に出すことはなく、あの日その記憶だけを残して泥酔しきった津久井は、佐伯が言い出さないのでもしかして酔いが見せた夢物語だろうか、と思い、佐伯に確かめられずにいる。
なぜならそれは、昏く沈んだ津久井にとっての光明であったから、夢であった時の衝撃に耐えられそうにもなかったからだ。
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