「蒸すな」
及川がドアを開けると、開口一番麻生が云った。
それに苦笑しながら、麻生が入れるようにドアを大きく開けて、及川が返す。
「……ああ、台風が来るからな」
それに麻生は足を部屋に入れつつ、外を見遣るように振り返る。
「知らなかったか」
動作に苦笑して、及川が問うと、ドアを閉めた麻生が頷いた。
「ああ」
「鈍いな」
間髪入れない言葉に、麻生は肩を竦めた。
「純は手酷い」
それに異論だ、とばかりに及川は眉を上げる。そして云った。
「明日来んだぞ。まだ電車は止まってないが、飛行機は一部止まってんだ。それ知らねえって、………お前、鈍いにも程がある」
「そうかも」
麻生が困ったように笑った。
リビングまでの短い距離の間に、先ほどまでの蒸した空気は消えていく。そして外の残暑の気温の高さも霧散していた。クーラーが効いているのだろう。
外回りがなければ、こういう暑さを及川は好きではない。
――あとは、剣道……。
そういう時だけは、及川は暑さなど何も感じていないかのように振る舞う。
あの凛とした空気は今も麻生の胸を震わせる。彼が本当に温度を感じていないのか、それを聞くことは今も出来ないが、あの張り詰めた背筋のまっすぐ伸びた背中を見るだけで、麻生も一瞬暑さを忘れる。そして魅入られてしまう。
もう、あの背中は見られないのだ、と思うと胸が切なくなる。今も背中を見ているが、やはり違う。――及川もそうなのだろうか。
「信じられないくらい涼しいな、この部屋」
考えるとキリがなくなりそうなのと、おそらくそのことを思っている自分は及川に対してよくない気がして、その考えを振り払うように麻生が云った。
「そうか?」
飲み物を用意し始めた及川は気のない返事をする。
「明日、台風なんて、本当に信じられないな」
「外の蒸し暑さは台風の前触れだと思うが、龍?」
視線がからみ合う。先に外したのは、麻生だった。そういう時に逃げるのはいつも麻生だ。
「ずいぶん絡むな。………でもここ、本当に涼しい」
「俺にはちょうどいい。このくらい耐えろ」
及川の言葉に、麻生は苦笑する。
「了解」
肩を竦めて云ったのに、及川は眉を寄せる。
「気に入らねえ」
吐き捨てた言葉の意味を問う間もなく、及川はテーブルに並べたボトルの1本を開けると、グラスに注いで煽る。あっという間にグラスを空にすると、休む間もなく2杯目を注ぐ。
――始まった。
麻生は思う。こうなったらもう、聞くことは出来ない。異様なピッチで飲む及川に、怒鳴るように促される前に、麻生も近くにあったボトルと麻生のために用意されたグラスを取った。
暑さで目が覚めた。
いつものように、自分がわからなくなるほど飲んだので頭が痛い。それを手で庇うように起き上がると、肩からなにかがずるり、とと滑り落ちる。目を転じるとタオルケットだった。自分でかけた記憶はない。まだ多少の気温変化になにかをかけなければ風邪を引くようなやわな身体でも環境でもない。昨日は暑かった。
――純が?
行き当たる答えに、麻生は目を見開く。そしてまた暑いと思って、エアコンを見ると消えていた。それを見た時、断片的によみがえるやりとりがあった。
『寒い、純』
飲みながら、麻生は悪寒を感じて身体を両腕で覆った。
『なんだ、珍しいな』
『部屋は充分涼しいじゃないか。エアコン、消してくれよ』
『いやだ。俺は暑いのは嫌いなんだ。それにまだ、暑い』
そう云いながら麻生を見る及川の視線が、物云わぬ言葉になって、麻生を貫く。
――こんなことは珍しい。純が俺をこんなにまっすぐ見るなんてこと。
そう思いながら、麻生は逃げなければ、と思った。本能だった。そしてまだ酒の残っているグラスに更に酒を注いで、それを煽った。
そこで記憶が途切れた。
その後に及川がタオルケットをかけて、そしてエアコンを切ってくれたのだろうか。
部屋の主人はもういない。それはもう聞く機会がないことを意味する。
麻生は感嘆に片付けて、そして、タオルケットをたたんだ。その時、どうしようもない気持ちになって、たたんだタオルケットをぎゅっと抱きしめるようにした。そんな自分に驚いて、タオルケットをさっきまで寝ていたソファに放り投げる。距離があったので、折りたたんだ部分が広がってひらり、と舞う。たたんだ甲斐はなかったが、たたんであったとしても及川はきっと直すだろう。
そして麻生は外に出た。鍵はいつものように新聞受けに入れた。
外に出ると、風は麻生の身を叩くように吹き抜けた。空に目を転じると、時間は日中を示しているのに、ほぼ黒じゃないかと思うほど濃い灰色の雲に覆われていた。嵐が近いのだろう。麻生は足早に、その場所を後にした。何も追ってこない、――及川さえも。
それでもなにかから逃れるように、この場所ではないところへ行きたかった。
嵐が来ても、ここにいるなら、もう逃げられないような気がした。
end
071216up
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