【7月14日・フロックス / やだ、破廉恥!】



 優美な曲線を描くまるで飾りのような橋の上から池をまっすぐ見つめる人影を目にした時、執務が終わり、この道程を辿った自分を、方淵は呪った。
 誰か、この位置からよくわからないが、遠くから見ても華美な装束を身にまとっているのは、おそらく王妃だろう。
 ――また危ない場所にいて…………!
 方淵は大きくため息をついた。
 自分の目の届くところで、彼女が窮地に陥って、それを放っておいたりしたのを陛下に知られたら、陛下はどうするか。陛下の妃への愛情を目の当たりにしているから、想像すらしたくなかった。
 はあ、と誰も周りにいないのをいいことに大きなため息をつきながら、方淵はそちらに向かった。
 しかし近付くにつれて、それが王妃ではないことに気付く。王妃でないなら放っておいてもいいかもしれない。けれど彼女でないならどうしてそんなところにいるのかも気になって、結局近づいてしまう。
 その時だった。
「きゃっ―――!」
 ――え?
 方淵に気付いた様子もなく、その女性は身体の均衡を崩した。
 なにが起こったのか一瞬把握出来ずにいたが、すぐに我に返り、というかほぼ反射的に、その女性に向かって手を伸ばした。なんとか間に合って、彼女の腕を強く引っ張り、彼女の身体を引き寄せる。そして自分と彼女の体勢を整えて、橋の上で安定させた。
 わずか数瞬の出来事だったが、なんとか池の中に入らないで済んだ。ふう、と方淵は大きく安堵の息をつく。
 ――王妃じゃなくても、危なっかしい………。
 すると、方淵の胸の辺りから声がした。
「…………は、離して、ください」
 思いもよらないところから声が聞こえたので、方淵は一瞬、状況がつかめなかった。
「……………?」
 そして声のしたほうを見下ろして、青ざめる。
 方淵の目を下ろしたすぐに、娘がいた。女性にうつつを抜かすことがない方淵でもかわいいと思うくらいに見目麗しい。しかしその容姿よりも、方淵と彼女の距離が問題だった。なんといっても近過ぎる。そして方淵を見上げる瞳は、少し潤んでいて、かわいらしい顔もあいまって方淵にもとても魅惑的に映った。
 娘は方淵とほとんど身体を合わせているような感じで、しかもそれは方淵がその娘の身体に腕を回しているからだった。
「〜〜〜〜〜っ!」
 思わず振りほどこうとして、そこが橋の上だと気付き、方淵は慎重にすばやくその娘から離れた。
 ――氾家の令嬢だ。
 滞在客のことは仕事上知っているが、その客と関わる機会はほとんどない。そのせいで、顔を合わせないので、少し失念していた。
 自分の体勢を整えて、方淵は一歩引いて、彼女に向かって礼をした。
「失礼しました」
 礼をしているので表情は見えないが、彼女は方淵の言葉に、びくり、と少し身を竦ませているのが見えた。
 どうしていいのかわからず、方淵は顔を上げられない。ややあって、声がした。
「――…………助けて、下さったのでしょう」
 どこか震えた声に促されるように、方淵はようやく顔を上げた。そして彼女が気まずそうに顔を方淵からそらすように横に向けているのを見る。
「差し出たことを致しました」
 まさか、妃の夕鈴と間違えたとは云えない。方淵は固く答える。
「いいえ、助かりました。――一瞬、抱きしめられて『なんて破廉恥な!』と思ったのですけど」
 氾家の令嬢、確か紅珠という名の彼女が、穏やかに云う。しかしその言葉の内容に方淵は目を剥いた。
 ――は、破廉恥っ!?
 今まで生きてきた中で、自分をそんな風に云う人間はいなかったし、自分はあくまで品行方正に生きてきたつもりだ。なのに、目の前の彼女はいともあっさり自分を破廉恥呼ばわりした。
 思わず彼女に向かって抗議しそうになるが、『王の客の娘』と三回復唱し、大きく息を吸って抑える。しかしこれ以上、彼女と向き合って、そのことに触れないでいる勇気はなかった。
「失礼します」
 彼女に触れないように(破廉恥といわれた衝撃よりも、橋の上なので、互いの身の均衡が危ういためだ)踵を返す。数歩歩いたところで、紅珠に「待って、」と呼び止められた。
 その声音はかろうじて方淵の耳に届くくらいの小さなものだったが、思わず足を止めてしまうほどに切羽詰まった震える声だった。
 足を止めて、方淵は身体ごと紅珠に向き直った。そうしたくはなかったが、最低限の礼は尽くさなくてはならない。
「――なにか?」
 慇懃に問う方淵に、紅珠は薄く笑った。少し自嘲気味に見えたのは方淵の気のせいだろうか。
「貴方は狼陛下のお妃様を知っていて?」
 上品な言葉遣いの問いにそぐわない内容、いや、紅珠の示す人物は方淵の脳に浮かんだ人間で間違いないが、彼女を指しているとは思いたくなかった。
 ――あれは、敵だ。
 王に傅き、その寵愛を受ける妃にも同じように傅けない。少なくとも、方淵はそうだ。その寵を受けた女性の家柄が不明であるならなおのこと、寵愛を振りかざしてなにをするか知れたものではない。
 しかし彼女は、方淵の予想を超えていた。
 寵愛を振りかざさないけれどもかなりの無鉄砲な娘であった。
 狼陛下も変わった趣味だ、と初めて思った時と、また違う意味で痛感した。
 彼女は、その妃のなにを知りたいのか。方淵は紅珠の意図が読めなかったが、頷いた。
「――……存じております」
 紅珠は方淵の答えに、池の水面に目を落とした。
「そう――あの方はすばらしい方ね。貴方が助けてくれたように、……あの方も私が池に落ちるのを、身を挺して助けてくれた―――」
 ――池に落ちそうな彼女を助けた? 身を挺して?
 方淵は驚きに目を丸くした。云われた内容を、認識するのに時間がかかった。
 身を挺したということは、2人もしくは妃が、池に落ちたことを示している。女性らしからぬことこの上ない。
 信じられないが、紅珠がそんな風に嘘をつくとも思えないし、なによりその噂は紅珠に利が少ない。そしてあの妃ならやりかねないだろうとも思う。
 どう相槌を打てばいいのかわからずに黙っていると、紅珠はおだやかな表情で言葉を継いだ。
「私、狼陛下の花嫁の一人にしていただきたかったの―――けれども、あの方は、私の覚悟程度では『陛下を渡せない』とおっしゃった――」
 その顛末はくわしくはないが聞いている。
 噂という形での、かなり信憑性のある話として流れるそれを方淵も聞き知っていた。
 しかし、まさかその顛末のきっかけが池だったとは思いもよらなかった。
 氾家の令嬢であるなら、妃としてふさわしいかもしれない、と方淵は噂の流れ始めに思っていた。陛下に、氾家の後ろ盾は悪くない。けれどその道を妃が閉ざしてしまった。
 ――しかし、妃にその権限があるのか。
 考えかけて、ふと自分の主が浮かぶ。妃も寵愛を振りかざさないけれども、陛下も妃に溺れきってはいない。そばに置いているから確かに気に入ってはいるようなのはわかるし、どんな女人にもしない表情を浮かべているのは知っているが。
だから、妃の決定に王も賛同したのだろう。
王も、紅珠を切り捨て、妃は一人でいいと、その顛末の後に、脈絡もなく方淵に呟いていたのを思い出す。
 ――確かに、『狼陛下の花嫁』は荷が重い。
 方淵にだってわかる。
 こんな華奢な女性なら、すぐにどうにかなってしまうかもしれない。しかしあの妃なら猛然と、しとやかさのかけらも見せず、陛下と一緒にいろんなものと戦っていくのだろう、と考える。
 戦いに赴くのではないが、その姿を想像して、方淵は思わず口の端を上げた。
 ただ、氾家の後ろ盾も含めて、この可憐な女性が陛下にとって悪くない、と思ったのも確かだ。
 妃と違って、触れたら折れてしまいそうなほど儚い。
 ――このたおやかな女性なら―――。
 妃よりも陛下と並ぶ姿は絵になるだろう、と考えて、ふと方淵は思い出してしまった。
 池に落ちそうな彼女を救った時に、腕を引っ張り、反動で自分の胸の中に収めてしまったこと、その感触を今になって思い出し、方淵は真っ赤になった。
 紅珠の言葉にどう答えるか、必死に考えていたが、そのことを思い出し、方淵の思考は完全に真っ白になった。紅珠を見られずに、礼をして、苦し紛れに云った。 
「私は執務に戻らねばなりません」
「あら、残念。助けてくれて、ありがとう」
 唐突な方淵のでまかせを信じ、紅珠は少し惜しむように云うのを、いろいろな罪悪感でいっぱいになり、もう一度礼をして、踵を返した。紅珠から少しでも早く離れたくて、方淵は逃げるようにその場を去った。
 しかし、一度思い出した紅珠の感触は、方淵の脳ではなく、身体が覚えていて、執務に戻った方淵は集中出来ず、珍しく陛下直々に雷を落とされるのだった。
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可歌企画の、唯一の投稿作品です。その割に、話が多いのはチャットに参加した時の提出物が多かったからです。このお題をいただいた時にはもう残りふたつしかなくどの可歌作品にしようかな、から考えてました。その矢先神様がこの2人をくれたので書いてみました。たすです、たす。