初めの印象は覚えていない。
覚えていればよかった気持ちを後悔と知ったけれど、ただ、うっすらと覚えているものはある。あの日に初めて会ったのはあの人だけだったから、多分間違いない。
――まぶしい、オーラの色。
防音がきいているはずの練習室から、わずかな音が流れてくるのを志水は拾った。足を止め、いつもついうつむけてしまう顔を上げて、音の出所を追う。
――せんぱいだ………。
顔を上げて、志水は無意識に胸のあたりに軽く握った手を当て、祈るように目を閉じた。
彼女という存在を、志水の脳が認識したのは、奏でる音を聴いてからだ。
あきらかに他の参加者とは劣る技術、なのにその音はとても澄んでいて、志水は声を上げそうになったのを今でも覚えている。
――こんな音、あるんだ………!
その音は、その時本当にわずかだったけれど、今も志水の耳にはっきりと残っていた。
日野香穂子、という先輩の名前を、音とともに刻んだ。
忘れるつもりはないだろうけど、音楽に関して以外の記憶がときおり曖昧になると多少は自覚している志水だったが、名前も音も忘れないだろう。――それは確信。
あの日のことを思い出して、さらに技術もつきますます志水の心を離さない音色に耳をすませていたが、その音が途切れた。
「……………?」
練習を終えたにしては、おかしいくらいに中途半端な切れ方で、志水は首を傾げながら、廊下を歩き出す。おそらく、とあたりをつけた練習室を目指しているとそのドアが開いた。
「志水くん?」
「―――えっ……?」
ドアを開けて、こちらを見る前に、日野の声がして、志水は心臓が飛び出るほど驚いた。小さく驚く声を探り当て、日野がひょっこりとドア越しに志水を見つけて破顔した。
その笑みに、さっきの驚きをひきずったまま、志水の心がぐらぐらと揺れ出す。ずっと胸に置いた手がぎゅっと強く握りしめられた。
「あ、やっぱり」
「……………どうして………」
ぼんやりとつぶやくように問うた言葉は、それ以上はかすれて出てこない。志水にしては珍しく頭が真っ白になっていた。
離された問いを、日野はにこりと笑みを深くして、答える。
「ヴァイオリンが、喜んでたから。ふふ、だから志水くんかなあって」
日野はいつも志水を驚かせる。普通科の人はそういうものなのだろうか、と思うくらいだが、どうやら日野が特別らしい。特別というのも少し間違いで、志水にとっては特別だということなのである。
云われた言葉をぼんやりと反芻してみる。
「――喜ぶんですか?」
にこりと日野は笑って頷いた。
「うん。志水くんが近くに入るとちょっとだけ、音が変わるの。どういうふうかってうまく云えないんだけど、今もね、少し音が変わったから、志水くんだって思ったの。で、やっぱりそうだったの」
「すごいですね………」
日野のすごさを改めて感じながら、志水はため息をもらす。
――僕のチェロも喜ばないかな?
ふと思う。
だけど、日野のヴァイオリンのように電波受信みたいではなくても、日野がそばにいると音が変わる気がする。
――それは僕のチェロが喜ぶんじゃなくて――。
自分がうれしいのだろうけど、と志水はぼんやりと思う。思って、その思ったことに込められたものに気付いて、志水の顔に朱が指す。
それに気付いた日野が、志水くん、と遠慮がちに声をかけながら、首を傾げて、志水の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 風邪?」
向けられた問いに、志水は日野から見える自分の状態に気付いて、あわてる。顔が熱をもったみたいになっている。けれどこれは決して風邪ではない。
「えっ、あの――違うんです」
「そう? でもセレクション前だから気をつけないとね。セレクションと関係なくても身体は大事にしないと」
ほっと安堵した息をつきながらも、真剣な表情で云う日野に、志水は微笑む。
心がほんわりとあたたかくなるのを感じる。
「はい―――あ、せんぱい」
頷いて、ふと思いついて、日野を呼んだ志水に、なに?と問い返す。後に続く言葉を、志水は何度も日野に云っていたけれど、未だ慣れずに、一瞬決意を固めて、口を開く。
「よろしければ、なにか弾いてくれませんか?」
志水の言葉に、日野はさきほどまでいた練習室のドアを開けて、志水を誘った。
「いいわよ、なにがいい? って弾ける曲少ないんだけどね」
それにまだまだあの音色は出せないんだけどね、と小さくつぶやく言葉が志水の胸を刺す。
「じゃあ………」
志水は初めて聴いた、日野の演奏曲をリクエストした。ほとんどこの曲ばかりをお願いしてしまう。
頷いて、ちょっとすました会釈をして、ヴァイオリンを奏ではじめた。
ぐんぐんとうまくなる日野の演奏を志水は聴く度にいつも痛感する。音はあの澄んだ音そのままに技術もついて、いよいよ志水の心を揺さぶった。
――もうすぐ、聴けなくなるかもしれない………。
音色に身をゆだねながら、志水は考える。
こうやって2人きりで聴くには、いろいろと揺れてしまうものがある。それがなんなのかよくわからないけれど、そんなふうに思った。けれど、もっとうまくそして澄んでいく音をこの曲で感じたかった。
初めて会った時に、もっとはっきり感じたかった日野のオーラを懸命に呼び起こしながら、あまり人に関心がない志水が、気がつくと探してしまう目の前の人への自分の気持ちを考えてみた。
けれど答えは出ずに、曲は終わる。
「ありがとうございました」
拍手して、日野を見て、志水は少し息を飲んだ。
柔らかい夕陽が彼女を包んでいる、その色は志水は初めて見た時に感じたオーラの色によく似ていた。
end
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