「あー、なんかわかるわ………」
 つぶやいた日野に、志水はなんとも複雑な表情を浮かべて、彼女を見つめた。

 それは音楽室でのこと。
 放課後の音楽室に訪れた日野は普通科の制服のせいかとても浮いていた。初めは嫌そうに、どこか気配を消すようにいたのだが、セレクションが近いこともあって、嫌そうな空気だけ残して、今は堂々としている。そうであってかまわないのだ、と小さく感じた。
 必死に譜面を読みつつ、あれこれ書き込んでいる様子は、試験勉強をしている姿のようで、少し微笑ましい。きっとあんなふうに試験前も一生懸命になるに違いない。音楽科の試験は今は多少違うものだけれど、中学の時の試験をふと志水は思い出す。それでもチェロ以外のことであまり夢中になることは少なかった。微笑ましい気持ちは、日野が自分と1つ上の学生であることを再認識した親近感かもしれない。話していたりするとそうでもないのだが、演奏をする彼女はあまりにも豊かで、そのことを失念してしまう。
 志水も音楽室で譜面や文献を読みたくてやってきた。日野に声をかけるかどうか迷って、邪魔はいけないと思いつつも日野の後ろの席に座った。
 そうすると志水の世界は机上だけになる。
 文献を読むのは、時に眠りをひどく誘われるけれども、ただただ練習するだけではなかなか理想に近づけないから、眠りに邪魔されても必要と感じた文献は最後まで読む。外のいい天気の中で本を広げることも多いが、文献を読むというよりは日なたぼっこする息抜きみたいなものだ。
 今日は音楽室だから、いつもよりは進みがいい。
 けれど、日野の前に座っている女子(タイの色は見てないからわからない)の声が、跳ねるように志水の耳を打った。
「月森くんてやっぱり王子様よねえ」
 ため息とともに吐かれた言葉はつぶやきとして片付けるには大きく、空気に馴染まなかった。意識が多少他に行っていたためか、集中の糸は切れ、志水はぼんやりと顔を上げた。声の主を見ようと思ったわけではなく、視線はすぐ前の日野に向けられる。背中はさきほどと変わらないままなので、志水には自分が聞いた声が日野に聞こえたかわからない。
「しーっ、聞こえるでしょ?」 
 咎める声は志水が意識していなければ聞こえないほどささやかなものだった。
「でもさー、ああやって楽譜見てる姿もだけど、ヴァイオリンを持った日には本当にプリンス〜って感じ」
 さきほどよりはトーンダウンしたものの、それでもまだはっきりと声は響いた。
 ――楽譜、見てる………?
 ふと言葉を反芻して、志水は視線を巡らせた。首までは動かしていないが、王子様を発見した。
 窓際の枠に軽く身体を預けて、楽譜を見ている。そうしながら時折、さらさらとなにか書きつけているから、おそらくセレクション用の編曲をしているのだろう。
 ――王子様………。
 その姿を見つめながら、志水は思うがそのイメージはいまいちピンと来ない。考えると、彼の奏でる曲は思い出すのだが、月森自身に志水が感じたことはなかった。今も変わらない。志水にとって大切なのは音楽であって、決して容姿ではない。
 ああ、でも、と旋律を思い出しながら、志水はくちびるに手を当て、ふ、と笑った。
 ――月森先輩の音楽は完璧かも。
 それを王子となぞるならそうかもしれない。
「確かに、そうかも。制服でだって気品あふれる感じだものね」
 さっき咎めた声が、柔らかく同意する。
 その後に聞こえたのだ。咎める声より小さくひそやかに、それでもはっきりと。
「あー、なんかわかるわ………」
 同意のつぶやきは、誰かに聞いてもらおうという意図を感じなかった。
 声に、主を見ると、さっきまでの様子とはうって変わって、片方の腕で頬杖をついて、もう片方の手は開いた本の上のあたりを無造作につかんで、月森の方へ視線を向けている。
 ざわり、と胸が波立つ。その自分に気付いて、志水は驚いて、あわてた。
 その拍子に自分が読んでいた文献が、志水の手の中で持ち上がって離れる。かたん、という音はわずかな高さからの落下音で誰が気に止めるような音ではなかった。―――ただ1人をのぞいては。
 音をたてたことは、その音がささいなものだったから志水は気にしなかった。ただ自分の動揺に驚いていただけで。
 本が無事なのを確かめて、ふと視線を感じて顔を上げると、日野と目が合った。
「………せんぱい?」
 うまく云えただろうか? 普段会った時みたいに。
 けれど、少し声がかすれてしまった、と悔やむが遅い。こんなにこまかいことが気になるなんて、前はなかった、とやつあたりのようにこっそりくちびるをかんだ。
 志水の様子に気付いた様子はなく、日野は微笑んで、きちんと志水の方を振り返って云った。
「志水くん、いつからいたの? こんなに近いなら声かけてくれたっていいのに」
 意識していたけれど、日野が熱中していなくても志水は声をかける気がなかったので、ペコ、と頭を下げる。
「………すみません」
 律儀な志水に、日野は困ったように笑って、いいのよ、という風に手を振って云った。
「冗談よ、冗談」
「冗談、ですか………」
 ぼんやりと問い返す志水に、日野が頬のあたりを指でなぞって、答える。
「声はかけてくれるとうれしいんだけど、まあ私も気付かなかったしね。私も気をつけよう。椅子の音にも気付かなかったなんて不覚」
 ぼやく日野の言葉に、志水は胸があたたかくなって、笑んだ。そしてあることを思い出した。
「………そういえば、月森先輩って王子様なんですか?」
 日野にしたら予想もつかなかった問いだったので、少し驚いたように目を見開いて、それから苦く笑った。
「ああ、志水くん、近くにいたから………聞かれちゃったのね」
 いいんだけど、と言葉を切った。そして、視線を月森の方に向ける。日野の視線を志水も追う。真剣な表情はさきほど見たのとほとんど変わりない。
 少し思案してから、日野が口を開く。
「お姫さまは迎えに行かないけど、お城にはいそうよね」
「はあ、月森先輩、お城に住んでるんですか………」
「いや、たとえよ、たとえ。………でも月森くんは王子様っていうより、王様よね。もうあの誰も寄せつけないようなところとか。王子様はどちらかといえば志水くんだと思うわ」
 手を振って、志水の言葉を否定しながら、日野は志水を見て、いたずらっぽく片目をつむった。
「――――――っっっ」
 言葉の内容と日野の動作に、志水の心臓は壊れそうなほど跳ね上がった。
「え、えと、それって、……僕がお城に住んでるか、――お姫、さまを迎えに行く感じがするからですか?」
 自分がどうにかなってしまいそうなほど、自分を保てないことはチェロを演奏している時でもあまりない。日野といると、自分が変わっていくのを志水は確実に感じている。そのひとつひとつに反応するのは大変だけど、そうなることに嫌悪を抱いていない。むしろ少しわくわくした気持ちになる。ただ怖いことはあるけれど。
 今回もそんな感じで、志水はフル回転させた脳が出した答えを少しつまりながらも一気に云った。
 小声で、多少のんびり口調だが、まくしたてる志水に日野は目を丸くして、そしてうーん、とうなった。
「あ、どうだろ。結構イメージかな? 月森くんはもう私の中で王様なのよ。志水くんもね、そんなふうに王子様なの。お城住んでるとか、お姫さま迎えに行くとかじゃなくて」
 あんまりうまく云えないなあ、と日野はため息をつく。
 志水にもそれは伝わらない。けれど、月森が王様というのには頷けた。
「月森先輩、確かに、そんな気がします………」
 つぶやくように云って、それがイメージなのだと気付く。
 ――せんぱいは、どんなふうに僕のことを王子様って思ったんだろう?
 同時に沸き上がる疑問。志水は日野を見つめた。志水の問いかけるような瞳に気付かず、日野はつぶやきに満足げに頷いた。
「そうでしょ? もうね、お城に住んでるんじゃなくて、百獣の王みたいな、そういう感じ」
 日野の説明に、ああなるほど、と志水も頷く。奏でる音は美しく、技術には隙がない。少しの会話で、百獣の王のような孤高な印象を受けたのをぼんやりと思い出す。
 確かに、王様、っていうのかもしれない。
 けれど、志水は自分がどう思われて、王子様だと例えられたのかが気になった。そうやって日野を見ていたからだろうか? 少し困り顔をして、言葉を紡ぐ。
「――………私は普通科だから、音楽科の人って、ちょっと違う視点で見ちゃうところがあって、それでもこうやって来るとあまり変わらない気がして、………でも、志水くんはね、やっぱり私の中で違ったままで」
 日野の言葉に驚いた。
 男と女の違いはあるけれど、日野と自分に性別と年齢以外になにが違うというのか?
「えっ?」
 当惑は志水ののどを震わせて、日野の耳を打つ。
 うーんとうなって、日野は言葉を継ぐ。
「誤解しないでほしいんだけどね? 私も言葉の選び方下手だから、どうだろう………志水くんは、私の中できらきらしてるの。音じゃもちろん、志水くん自体が。うん、初めもそうだったけど、話してみてもね、だからかな――………」
 云いながら、日野の顔は少し赤い。片手もそれを隠すように、軽く覆っている。
 ――きらきら、してる―――?
 自分が、というよりそれは日野ではないかと思って、志水も日野につられるように顔を赤くした。
 その理由を聞いて、嫌だと思えなかった。一線をかくされていることは淋しいけれど、うれしい気持ちの方が強かった。
「………ありがとう、ございます」
 自然と笑みがこぼれる。そんなふうになるのも日野の前だけで。
 志水の顔を見て、息を飲んだ日野は、微笑みを返す。
「いいえ、どうしたしまして。――あ、もうこんな時間?」
 日野が腕時計に目を落とした瞬間、下校を促すアナウンスが流れた。
「もう日がないから、ウチに帰ってももうちょっと頑張ろう………志水くん、また明日」
 帰り支度をしながらつぶやいて、かばんを抱えて、志水に手を振る。
 どくん、と志水の心臓が高鳴ったことに目の前の人は気付いていないことを祈りながら、志水も笑んで答えた。
「さようなら。………また明日」
 叶わないかもしれない、けれど小さな約束は志水の胸に刻まれる。
 明日会えても会えなくても、もし日野を見つけたら、今度はきちんと声をかけようと、志水は心に誓った。
 end






 
040409up 
語彙の無さにへこむ………思ったより少し長くなりました



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