はあ、とため息がもれる。
 数えたわけではないが、気がつくと深く息をついている。
 あわてて少し前の記憶を思い返し、志水はまたため息をついた。

 ――なんて、音色だろう………。

 日野の音は、誰よりも際立っていた。
 普通科という目で見てはいけないが、まだ技術が足らない点はある。初めて聴いた時よりは目まぐるしいほどの向上があったけれど。それでも、音はますます澄んでいく。少し前に、演奏を聴かせてもらったのだが、それよりもはるかに上達していることに志水は驚きを隠せなかった。
 そして、その音に心を奪われていることも……気付いていた。
 もうずっとだったのだ。初めて音を聴いた時から、ずっと揺さぶられてきた。何回か聴かせてもらう演奏は技術も加わりながらも、透明さは失わない。なんでこんな音が出せるのか、不思議で不思議でならなかった。
 胸に渦巻くさまざまな感情を、志水は説明出来ない。他人の音を聴いて、こんなふうになることは、身近な人物では無かったことだった。
 セレクションの日野の演奏の間、参加者たちが並ぶ席で、志水は胸のあたりをぎゅっとつかんで聴いていた。

 楽器が違うのだ。
 そう思い、チェロを見下ろす。そっと手を触れる。どこもかしこも始終触っているから、いつもと違う触れ方をしてもすぐに手に馴染んだ。すると少し、落ち着いた。
 セレクションで、上になりたいとは思っていない。ただ、与えられた場で、自分の最高の演奏はしたい。
 ――だから、演奏の間だけ、せんぱいの音は忘れよう。
 自分は自分でしか有り得ない。今、あの音で演奏は無理だ。人の音で演奏してもそれは意味がない気もする。それならば、自分の音を奏でていくしかない。忘れるのは嫌だけれど、あの音を思い返すと心がざわめく。今は特にあの音に焦がれて、急いてしまう可能性はぼんやりと感じていた。
 ――僕がそうなったように、誰かの心に響くだろうか………?
 普段は思わないことを思いながら、志水はきちんと自分の音を表現した。

「あ、志水くん、お疲れさま」
 セレクション後、帰り支度をして廊下を出た志水に、声がかけられた。声はよく知っている人物のもので、志水は驚いて、弾かれたように顔を上げ、そして、ぺこんと頭を下げた。
「………お疲れさまです」
「今帰るところ? よかったら、途中まで一緒に帰らない?」
 覗き込む瞳はどこか不安げな色があった。なにか、心配事があるのだろうか、と思いつつ、そうでなくても快諾するつもりだったので、志水は頷く。
「よかった………」
 両手を合わせて、ほっとしたように息をついて、日野は云う。
 並んで控え室を出ると、外はもう参加者も観客も帰ったのか、人影がまばらだった。
「あんなに人がいたのが信じられないわ」
 どこか夢みたいな口調で云う日野に、志水も同意する。暮れかかる陽に終了してからかなりの時間が経ったのがわかる。日野はわからないけれど、志水はゆっくりと支度をしながら、ぼんやりと日野の音楽を心に刻んでいた。はっと気がついて、あわてて出てきた。けれど、それがこんな偶然になったのは幸運だったかもしれない。
「そうですね」
「――なーんて、ウソ。ここ入った時に、私の記憶は飛んじゃってて、気がついたら、自分が最前列席で聴いてたの」
 ぺろっと舌を出して、日野は頭をかきながら云った。
「ほんとう、ですか?」
「お恥ずかしいことに、本当よ。こういうのは初めてだったし、どういうものなのか、自分でも想像…する必要なんてなかったしね。次はもっと自分の演奏したいな」
 暮れかかった陽を見上げながら、日野はまっすぐな瞳で云った。その瞳に吸い込まれそうに、志水の時が止まる。
「………出来てましたよ」
 顔を伏せて、小さくつぶやく。
 その声は日野にも聞こえないほど、ささやかなものだった。きちんと云いたかったけれど、なんとなく云えなかった。
 日野の言葉を聞いて、足を止めた志水に、日野はようやく気付き、そっと志水に寄り添う。動作を受けて、志水の足も自然と前に踏み出す。
 すごく驚いたのに、そういうのがここちよい、と思った。
「………ちょっとだけ悔しくって、セレクションの後、同じ曲を弾いてたんだ。やる度に納得いかなくて、何度も弾いちゃった。――点数もらえてたってことは記憶にないけど弾いてたんだろうけど、私、ちゃんと曲を大事に弾けてたかなあ?」
 志水は驚いた。
 ――こんなふうに、考えるんだ………。
「私、もうね、曲がすごく好きで、旋律のひとつひとつがきれいに弾けると、すごく幸せな気持ちになれて………そんなふうに、聴いてる人も感じてほしいなって、これはすごくいい曲だよって気持ちを込めて弾こうと思ってたんだけど、自分が忘れちゃうなんて不覚」
 ときめくような口調で云って、最後は肩を落とす。
「ちゃんと弾けてましたよ」
 その言葉を云うのに、勇気が必要だった。それはおそらく、自分の心をあんなに動かしたのに、日野がそれを覚えていないことがほんのちょっと悔しかったのかもしれない。それだけ緊張していた彼女の気持ちはわかるが、もしかしたらそれくらい、演奏に集中していたのかもしれなくて。
 ただ、云った言葉は本当だった。
「ほんとう?」
 日野は、目を輝かせて問う。志水は淡く笑んで、頷いた。それを見て、日野は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「よかったー」
 その場にしゃがみ込むようにして、日野は喜びを全身で表わした。
 なにかが、志水の心の奥底で弾けた気がしたけれど、それは一瞬のことで、その正体がつかめず、志水は日野を見つめた。
 ちょうど通学路の公園に続く階段で、日野はそのまま体勢を直し膝を両腕で抱え込むようにしゃがみ込んだ。どこかを見ている日野の穏やかな笑みをたたえた表情はどこかさっぱりとしていた。
 なにを見つめているか、気になって、視線を追う。そこには、今沈もうとしている太陽が、最後の光を放っていて、その美しさに志水ものまれた。思わず日野の隣に座り込むと、志水の方を見て、「きれいね」と笑った。その笑みがきれいだと思ったけれど、志水は頷くだけで精一杯だった。
「もう、これは恋だわ」
 ぽつんとつぶやかれた言葉は、志水の脳を直撃した。
「えっ?」
 思わずバランスを崩してしまう。階段の途中で2人は腰掛けていたから、崩れたバランスは階段を踏み外す感じだった。
「あぶないっ」
 日野は崩れかけた志水のバランスに、とっさに手を伸ばす。ぐっと引っ張ったが、そのまま今度は日野のバランスが崩れてしまい、志水の胸に倒れ込む。さすがに日野に引っ張られた時に、志水は体勢を持ち直したので、日野を抱えたまま元に戻った。
「ごめんね、助けるつもりが助けられちゃった」
 日野の声に我に返って、あわてて身を離した。心の動揺はさっき以上だったけれど、さすがに今回はバランスを崩さないようにはした。
「い、いえ、こちらこそ」
 答える声がうわずってしまう。感触がまだ身体全体に残っていた。
「私が変なこと云っちゃったからかな。恋の相談って云えばそうだけど、私の恋の相手は、ヴァイオリンもだけど、音なのよ」
 言葉の途中、さえぎりたい気持ちをこらえていた志水は少し拍子抜けした。
「もっと、きれいに音を出したいって思っちゃうの。そういう時、じたばたして、どうにもならなくて、腹が立って、それでも譜面見たり、見始めるとすぐ眠くなっちゃう文献開いたりして、結局頑張っちゃうのよねえ。まったく関係なくてもずっとヴァイオリンのことばっかり考えちゃって、これは厄介な相手だわ」
 困ったように日野は頭を抱えた。
「………わかります………」
 音に対するもどかしさは、志水もしょっちゅうだ。たまにどうしようもなくもどかしくなる時がある。そんな時、目をそらせずに、ただチェロと対峙する。もともと忘れがちな、寝食も完全に忘れてのめりこむ。その状態に自覚はなく、それは後から周囲から心配の声とともに聞かされていた。気をつけようと思うけれど、どうにも自覚症状が少ないみたいで、繰り返してしまうようである。
 少し驚いたように目を見開いていた日野は、納得したように頷いた。
「そっか、志水くんもかあ。――お互い、頑張ろう」
 にこっと笑って、日野は手を差し出した。志水は自分の手を重ねた。
 柔らかい日野の手は思ったよりも小さくて、志水は驚いた。そっと力を入れすぎないように握りしめた。握手をすると、日野が云う。
「ホント、頑張ろう。――今はまだ、叶わない恋のために」
「………はい」
 ――叶ったら、どうなるんだろう?
 考えがふと胸をかすめたけれど、まだ叶ったわけではないから、考える必要はない、とすぐに消した。
 そして2人は立ち上がり、帰路へ歩き始めた。
 別れ道でさよならの挨拶をして、歩き出した日野の背中を見つめていた志水は「先輩」と思わず呼んでしまった。声に振り返った日野は、離れた数歩を早足で埋める。
「どうしたの?」
 志水の顔を覗き込むように問われ、呼んだ時に浮かんだ言葉が霧散しそうになる。
「え、と、あの………また、今度、ヴァイオリン、聴かせてくれますか?」
 目を丸くして、そして日野はゆるやかに微笑んで頷いた。
「ええ、もちろん。うれしい」
 そして今度こそ別れた。
 また引き止めてしまいそうになるから、志水は日野が背を向けたと同時に自分の身体の向きを変えた。独りになって、歩き出すと、セレクションで聴いた日野の演奏が脳裏を駆け巡る。
 その音楽は、志水は考える恋に似ていた。
 end






 
040410up 
お題に話を合わせると、どうして脱線するかな
いやもう合わせきってもない



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