『音が変わった』

 本能的に思った。ただ本能より先に、気付かれた、気がする。
 ここ数日、志水の演奏を聞いた参加者は一様に不思議そうな顔をしながら、拍手を送ってくれた。
 譜面はたどれているし、技術も表現も特に云うことはないのだが、違和感のようなものがある顔。
 あまりに同じような表情をされるので、さすがに志水も気になって、そんなふうに解釈をつけてみた。
 こんなふうになることは今までなかった。
 音は変わる、それは、志水の技術や表現力が備わってそうなるのであって、こんなふうな不思議な変わり方はなかった。
 そう、技術や表現力が変わったのではないのだ。
 ――だったら、なんだろう?
 第2セレクションは終わったが、次のセレクションも近いことをめずらしく意識して、これまためずらしく志水は思い悩んでいた。
 いつもは眠りにあてている時間も、ただまどろむかのように意識を失うまではいかず、それはなんとなく落ち着かない。たまに、考えることがあって、そうなることはあったけれど、そこまで眠れないような状態になるのは初めてだった。
 ――こんなでは、駄目だ………。
 思い描く音楽はまだ自分でもとても足りないと思う。それなのに、ここで止まっていてはいけない。
 深い、重みのある叙情的な音楽が志水の胸にある。はっきりとしたイメージはないけれど、それに近づいているかどうかはわかる。
 今は―――少し前よりも遠ざかっている。
 それだけが、はっきりとわかる。その事実が志水を昏い道へ追いやる。

 校舎裏で寝そべっていても、眠気はまったく訪れなかった。日々、そうした生活での疲れが身体から滲み出すけれど、意識はぼんやりとしてくるのだけれど、あのいつもすっと眠りの世界に入り込むようなほどにはまったくならない。
 ――すこし、つらいかな?
 薄目を開けて見える世界はまぶしいほどきれいで、今の自分にはまばゆすぎる。いま見える世界の音さえ出せないことが、志水をかすかにあせらせる。
 音が降りてこないことがある。そういう時は待つのだ、と知っているのに、音だけが変わっていくことに志水はどうしても急いでしまう。
 ――なにが足りないのだろう?
 変わったのは、自分に今まであったものが足りなくなったと考えるのが妥当だ。
 技術、コンディション、曲に対する解釈―――――そして、心。
 おそらく、心、であるような気がしていた。
 耳は志水の一番の観客。人も気付かないわずかなミスやちょっとした解釈の違い、それを奏でて、反応するのは聴く人でなく耳だ。そこが違和感を感じながらも、そういうものには触れない。だからそういうことなのだと思う。
 心、とわかっても今の志水に打開策はなかった。
 あれこれと考えて、気を引き締めて演奏をしても、なにか違和感を感じたし、聴く人もそんな反応を見せる。
 ここまでの壁にぶつかるのは初めてかもしれない。
 習っていた先生に云わせると、「まだ志水くんはこのラインまで行かなくていいのに、いつの間にか解決しちゃったね」という時があった。あの時は曲を弾くために夢中で足掻いて練習した。そういう技術のレベルアップの時、もう少しで弾けるのに、というもどかしさがあったけれど、これが出来れば弾ける、という確信があった。実際、そうだった。
 あれを壁というなら、今の壁は果てない気がする。
 出口が志水には見えてこないのだ。わかれば、出来なくてもそれを改善しようと尽力出来る。それすら出来ない、音もよくなっていかない、それがつらい。
 陽の光にまどろむことは出来ても、意識のどこかは冴えざえとしていた。普段はいつの間にか、横になっていて眠りに落ちている。けれど音が変わった、と認識し始めてからここ数日はそうならずに、ぽす、と身を投げ出すように横になってばかりだった。今日もそんなふうに横になる、それはどこか地面に救いを求めているようだと少しだけ思った。
「あ………」
 その姿勢でどれくらい経っただろうか、志水は聴こえてくる音色に耳をすませた。
 ――香穂せんぱいだ………。
 音は遠くない。
 おそらく屋上からだろう。
 どんどん深みを増し、透明さを失わない、ある意味、理想の音。
 聴けばわかる。音にはそれぞれ個性があるが、きっちりと志水が認識することは少ない。けれど日野の音は聴いた時から耳と心に刻まれて、間違わない。
 日野の音は、志水の心に波紋を作るように、ゆっくりと広がっていく。
 いつもはそれがどこか心地よかった。
 ―――けれど、今は………。
 志水は立ち上がり、本を持って、逃げ出すようにその場から離れる。
 一番聴きたくない音だった。

 校舎裏で横になっても何も解決しない。
 だから気分を変えようと、練習室を出た志水は屋上へ向かった。
 音は違和感を抱えたまま、変わらない。なにより、自分はごまかせない。
 それでも、いや、だからこそ、弾くしか出来ない。
 奏でたい音を模索しつつ、セレクションに向けての曲を決め編曲し、自分のチェロに曲をならしていく。
 コンクール自体に、もともと意味は感じていない。
 自分の音が他の人にどう伝わるか、それはまだ考える時期ではない。今は、――少し違う。心に響かせる音を、自分に響いたように自分の音で伝えたい――そう思う。それ以上に今コンクールのことをどうでもいい、というのは逃避だとも考えていた。
 他の物事がぼやけてしまうほど、これにしか打ち込めない志水の唯一のもの。
 そうであることに今まで何の疑問も持たなかった、今は壁にぶつかって初めてその大切さを思い知る。大切だ、と今までも云えた。今はもっと深く意味を込めて、云える。
 だからこそ早く脱したいという願いは、祈りに近かった。
 せめて、前の志水くらいに戻りたかった。
 屋上の風がなにか変えてくれるかというような、淡い期待をこめて、屋上の扉を開く。
 開けた瞬間風が吹き抜けた。さわやかな風はそのうち来るであろう夏の匂いを少しはらんでいた。
 放課後の屋上はまばらに人がいて、それでもさらに独りになりたくて、扉の横の階段を志水は迷わず登ろうとしていた。
「あら、桂くん」
 その階段をちょうど日野が降りてきた。
 志水は無意識に息を飲む。
 会えてうれしい。会うと決まっているよりこうして偶然に会えるほうが、心が踊る。どんな形でも会えればうれしいものだけど。
 けれど今の志水の気持ちは複雑だった。
 音が変わった、と認識した日から、日野に会うのがうれしいけれど、なんとなく素直に喜べない――そんな感じだった。
「せんぱい、こんにちは」
 そう思っていても、喜ぶ気持ちのほうが優っていたのか声は弾む。
 日野も微笑んだ。陽が、日野の後ろにあってまぶしくて、きちんと日野の表情を追いたくて志水は思わず目を細めた。
「こんにちは。めずらしいね。いつもは練習室じゃなければ、下にいる時間なのに」
 知っていてくれたことに驚いた。けれどやはりそれも、今云われるのは正直困る。
 音が変わって、自分が変になっていくのを感じているけれど、周りに構っていられる余裕はなかった。
 そういう気持ちが志水を視線を伏せさせる。
「気分を変えたくて………」
 答えに、日野が肩をすくめたのが視界のはしに見えた。
「うん、別の景色もたまにはいいかもね。………それよりも、……桂くん、――ごはん食べてる? ちゃんと、寝てる?」
「―――っっ!」
 遠く、うすい幕の外にいた日野がその幕を破り、志水の視界に飛び込んだように、日野の顔がいきなり近づいて、志水は驚いた。まっすぐに自分に向けられた日野の瞳が心配気に揺れている。同時に、日野の言葉に驚いた。
 ――気付かれた?
「………どうして、そんなこと………」
 云うんですか、とさらりと云えなかった。いつもの自分なら、云えた。
 今の志水のなにもかもがおかしい、とさすがに志水自身でもわかる。普段日常にあるべき自分を意識したことがない。それをふと思い返してしまうのは、やはり音のせいだ。
 ――くるしかった。
 その一言では云い切れない。なにも捌け口にすることも出来ずにただ、追いつめられていく。志水にはその方法しか取れなかった。
 日野は遠慮がちに言葉を紡いだ。
「桂くん、気付いてる? ………顔色がすごく悪いの。最近もあまり顔色良くなかったけど、今日は特にひどいわ。どこか変なところない?」
 問われて、考えてみる。答えを返さなくては………と口を開いた。
「ずっと、いろいろ変です………僕が僕じゃないみたいに………」
 ――どこから変わっていったのだろう?
 音も、………そして自分も。
 なかば呟くように云う言葉は日野に向けられていない。日野に云っているのだが、感覚が鈍ってきている。もう、いろいろなことがおかしくなっていって、それすらもどうでもいい気持ちになっていた。
「ほんとうに、大丈夫?」
 心配な瞳はますます揺れて、日野は志水の額に触れようとした。
 その時、もしかしたら今日始めて、志水は日野を認識した。あわい気持ちが日野と会えたことを喜んでいたりしたけれど、その後はどこか夢うつつで会話をしていた。それが一瞬でよみがえる。
 ――なんてことを、云ってしまったのだろうっ?
 想いは誰にも云うべきではなかった。抱えたまま沈みこんでしまうほうがマシだった。それを、日野に云ってしまった。一番知られたくない相手だった。
 ぱん。
 乾いた音が響いた。
 それは志水がさきほどの会話を取り消すように、日野の手を払った音だった。
 音に我に返って、その出所を志水は見つめた。そして日野を見ようとしたが、勇気が出なかった。
「ごめんなさい」
 それだけは云って、志水は屋上を駆け出した。
 小さく叫ぶような日野の声が聴こえた。それでも足を止めなかった。
 どこをどうして走ったのか、辿り着いたのは自分の教室。
 日野はもうほとんど音楽科だと、志水は認知していた。制服の違いだけだ。彼女の実力は科に属する人物にひけをとらない。
 だからこそ、彼女から逃れるために、この学校で一番長い時を過ごしながら、馴染みを感じないここに辿り着いたのだった。
 ふ、と志水は無人の教室で笑みを落とす。
 感情はさまざまに入り乱れていて、うまく整理がつかない。なんであんなことをしてしまったのだろう。なにもかもどうでも良くて、それでも捨てられないものや失いたくないものはあって………。
 ――こんな自分は嫌だ。
 生まれて初めて、思った。

 end






 040508up
音が変わるということの認識をあえてこっちで



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