「………や、和也?」
柔らかい声が自分を呼んでいる。ぼんやりとそう思って、新井はハッと我に返った。
手の中には沢田の髪、我に返ったと同時に記憶も蘇る。
「あっ、ごめんっ! 沢田。なんか気持ちよくてずっと触ってた………」
バッと頭を下げる新井に、沢田は笑い出す。
「お客さん来るまでは俺は別に構わなかったんだけど………和也、休憩中だろ? さすがにマズいかなって」
云われて時計を見ると、予想以上にここにいたことになる、おそらくかなり長いこと髪を触っていたに違いない。
「うわっ、こんな時間! ごめん沢田、詫びはまた改めてくる」
ぐい、と残ったコーヒーを飲み干すと、新井は駆け出すようにロッキーを出た。出る瞬間、
「気にしないでいいから」
沢田の声が聞こえたが、『かとれあ』のシュークリームくらいの詫びはしないとちょっと申し訳ないと思った新井だった。
手が原チャリのハンドルに触れた時、沢田の髪の感触を思い出す。
――やわらかかったなあ………。
綿菓子みたいにつぶれたりはしなかったけれど、ふわり、と指をくすぐっていく感じはやはり綿菓子みたいだと思ってしまう。
――あーでもさすがにつぶれてたな。
長いこと新井がぐしゃぐしゃと押さえつけるように触っていたからだろう、濡れたほどではないが若干ぺちゃんとしていた、気がする。
「チーズケーキもつけたいとこだな」
原チャリを走らせながら、新井は呟いた。冗談めかして云うが、そんなことはせずにシュークリームを当初の予定より増やすくらいの算段を自分の中でつける。
そして集荷の合間に『閉店頃にロッキーに行く』と沢田にメールした。
「気を使ってくれなくてもよかったのに」
店に入って、客が一人もいないことを確認して、新井はシュークリームの箱を沢田に差し出した。
「それじゃ俺の気がすまないんだよ」
「ではありがたくいただきます」
受け取って、沢田が箱を開ける。
「………一人でこれだけあっても困るから、和也も手伝って」
「閉店近かったからおまけだったんだって」
それは嘘だった。確かに端数は負けてくれたが、申し訳ない気持ちが先に立って気がついたらちょっと量を多く買っていた新井である。それは会計の時に気付いたのだが正直な詫びの気持ちだと考えると減らすのもなんだかな、と思って「まあいいか」とそのまま会計をすませたのであった。
だがそのごまかしも、沢田にはバレバレのようで、おかしそうに笑われる。
「どっちでもいいよ。コーヒー入れるから少し待って」
頷いて、それから時計を見るとロッキーの閉店時間である。
「もう閉店にすんならクローズの札にしとくよ」
「任せた」
沢田の言葉に新井は立ち上がるとオープンの札を裏っ返しにする。ついでに入り口の照明も落とす。
「サンキュ」
カウンターに戻って云われた。笑顔だったので、細い目がいっそう細くなる。新井も笑みを返した。
コーヒーのいい香りがただよってくる。
カップを取る沢田に、新井は見とれる。目を伏せているので、やはり髪に自然に目がいってしまう。
「和也さ、」
顔を上げないので、新井も頬杖をついたまま、視線を変えずに答えた。
「んー?」
「シュークリーム食べたら、また触る?」
思いもよらなかった言葉に、頬杖がずるり、とすべった。なにが、と沢田は云わなかったが、沢田の髪を指しているのは新井にもわかった。
「なっ―――!」
慌てる新井に、沢田はコーヒーを新井のところに置きながら云った。
「触るなって、云ってないよ、俺は」
どこまでも冷静な沢田に、逆に新井の心が乱される。
「でもっ、あのっ、そのっ、だな――」
「気がすむまで、触りなよ。和也ならいいんだ」
細い目が意外な光を帯びて、新井を見つめる。
射竦められたように動けなくなって、そして鼓動が速くなった。
「え………?」
だがその目は一瞬のことで、沢田は次の言葉を継いだ。
「それとも、まだ今日は洗ってないから汚い?」
――なんてこと云い出すんだ!
そんなふうに思ったことはない。
むしろ昼にはまだ触り足りなくて、まだ触りたいと思っていたのに。だけどそれを云ったら、沢田は拒まないだろうが、そう思う自分を気持ち悪い、と感じるかもしれない――そう思って抑えていたのに。
「そんなことはないっ」
「じゃ、これごちそうになった後に、どうぞ」
にっこり笑われるともうなにも云えない。
「後で触らしてもらいます」
思わず敬語になった。そしてため息をつくと、呟いた。
「………それ、詫びなんだか礼なんだかわかんなくなってきたよ」
その時、沢田の髪がふわん、と揺れる。今日、一番近い、髪の位置だからか、髪の方からそれと共に甘い香りがただよってきた。
――なんだろう?
新井の問いたげの視線に気付いた沢田はくすり、と笑んで、謎は解かない言葉を云った。
「どっちでもいいから、コーヒーも入れたし、食べようか」
「………おう」
問えなくて、沢田の言葉に頷いた。
自分が買ってきたシュークリームを食べながら、無意識に新井は沢田の髪を見た。その時ぼんやり思いながら我に返り、新井は思わず頭をぶんぶんと振った。
――まだ、こだわんのか、俺は。
はあ、とため息をつくと沢田に「どうしたの?」と問われる。
ちょっと首を傾げた時にまた甘い香りが新井の鼻をくすぐる。それで匂いは沢田の髪から来ることを確信した。
――ますますヤバいじゃんかよ………。
隠せないとわかっていても「なんでもない」と答えるのが新井の精一杯だった。
云えるはずがなかった。
――沢田の髪、綿菓子みたいに甘いのかな、なんて。
061217up
|