シュークリームはゆっくり食べた。それでも中のクリームがたれるのを良しとしない新井の性分で、二口でなくなってしまう。
 コーヒーもことさらゆっくり飲んだが、落ち着かない気分で、カップに手を伸ばすのが多くなって、逆にいつもより早くなくなった気がする。
 初めに触ってもいい、と云われた時は心臓はひっくり返りそうなほど驚いていたが、ある意味あの時の沢田は不意打ちだった。だけど、今のように「触っていい」と前置きされるのは、不意を突かれるより緊張する。
 ――困った………。
 かちゃん、といつもは気にならないソーサーにカップを置く音すら新井の耳には大きく響く。
 カップに目を落としたまま、新井は顔を上げられない。上げたら、きっと触っていいよ、と云われてしまう。そしてその言葉に引き寄せられるように、触ってしまうだろう。
 なんてことないコミュニケーション、なのに、どうしてこんなに胸が早鐘を打つのだろう。
 そう考えると、触りたいのに、なかなか実行に移せないのだった。
 人に対しても新井に関しても、沢田はするどく人の気持ちを読む。新井は特に隠そうとはしないし、気持ちを隠すのはうまく出来ないので、見透かされてばかりだ。だから沢田はきっと新井の様子に気付いているだろう。
「俺が和也に嫌なこと強要しているみたいだな」
 そして恐れていた通り、見透かす言葉を沢田が云う。それはどこか困ったような空気を孕んでいて、新井の胸を突く。
「そんなことは………!」
 そう云って、とっさに顔を上げた新井は沢田の顔が意外に近い事に驚く。
「ない?」
 その新井の瞳を、いたずらっぽく沢田は覗き込んだ。細い目はとても楽しそうで、新井は魅入られる。そして負けを潔く認めて、頷いた。
 ――触りたいのだ。
 綿菓子ではないとわかったけれど、それでも。
「和也が、そんなに気を使うもんでもないからもっと気楽に触ってよ」
 その言葉は新井を気遣ってくれたものだったが、逆効果だった。新井はますます動けなくなった。
 ――うわーこんな自分、嫌だ!
 右腕を上げて少し伸ばせば、すぐに髪の毛に手が届く。だけど闇雲に手は伸ばせない。沢田の顔を見ないで、手を伸ばすのは変だし、失礼に当たる。するとやはり顔を上げなくてはならないのだが、きっと沢田は新井の目を捕らえるだろう。沢田と目を合わせるのに、緊張してしまう。
 沈黙が流れる。
 ――いちにのさん、で触るか………
 触りたいのになんでこんなに考えちゃっているのか、少し冷静になってみると間抜けなのだが、触ろうと心を決めると、自分の胸は壊れそうなほど早鐘を打っている。
 新井は心の中で小さくため息をついた。
「和也、俺もさ、和也の髪に触りたいんだけど」
 沢田の言葉に、新井は自分の耳を疑った。
「えっ!」
 驚きに思わず顔を上げると、沢田がにこりと、目を細めて笑う。
「こんな髪でいいのか?」
 反射的に問いかけながら、自分の髪を指で掬って沢田に見せるようにする。
 自分の髪は黒髪でまっすぐ。日本人典型の髪型はとても面白味があるとは云い難い。
「それは俺が和也に聞きたいよ。俺の髪だって、俺からすれば『こんな髪』だよ?」
 云われて、新井は納得する。
 1回、先に沢田の髪に触ってから、沢田が触りたいという自分の髪に触らせるかを考える。
 どっちとも、気恥ずかしいといわれれば気恥ずかしい。
 だが触ろうとすると、やはり緊張してしまう。
 一瞬、触りたい、と云ったのは沢田の気遣いではないかとも考える。それでも助け舟に乗る気でいた。
「先に触れ」
 云って、目を閉じた。触られる様を見るのはなお恥ずかしい気がして。
 ふわり、と沢田が笑ったような気がした。
「じゃ、お先に」
 いたずらっぽく云って、それから髪が掬い上げられる。掬った髪はくせがなく、短いためにすぐに沢田の指からこぼれ落ちる。軽く引っ張られる感覚に、目を閉じているからよけいに触れられる感覚ははっきりしていて、新井は反応してしまう。それを懸命に気取られまいとしていた。
「本当にまっすぐだ」
 そんな新井に気付いているのかいないのか、感嘆したように沢田が呟く。
 目を開けていたら、本当に恥ずかしかったかもしれない。
 沢田の、直毛故にするすると指を滑る感覚を楽しんでいる様子が、目をつむっていてもわかる。
「すごいね、和也の性格みたいにまっすぐでかっこいい」
 さらりと云われた言葉に、新井の心臓はひっくり返りそうになる。
 ――平常心、平常心。
 心の中で何度も云い聞かせながら、新井は答える。
「そうか?」
 心を隠す口調はどこまで隠せたかわからない。平然と答えているように見えて、実は喉がからからになるほど緊張していることを、沢田のことだから、気付いているかもしれない。
 ますます照れて、目が開けられない。
 髪を触ることにも緊張したが、触られていくうちに新井の心臓はまた早鐘を打ち始めた。
 そこに、ふわり、と先ほど沢田の髪に感じた甘い香りをかいだ。それでもまだ、新井は目を開けられなかった。

070121up




next→strange